無為

 近隣の市営ジムに行けなくなってから1ヶ月ほどが経過した。筋力を維持するために自宅で行える自重トレーニングをやるべきなのだろうが、どうやら僕はかなり意志が弱い人間らしい。筋トレをする回数はゼロに減ったが、逆にアルコールを体内に摂取する回数が倍に増えてしまったような気がする。

 

 元来酒を飲むのがそんなに好きではないタチなので、今までは飲むとしても週1回ハイボールを嗜む程度だったのだが、今週は仕事であまりにもミスを重ねすぎたのでアルコール依存症並のペースで飲酒をしてしまった。酒は消毒液のような苦みを我慢しさえすれば世の全てを一時的に忘却出来る代物なのだ。

 

 最近本当に労働が辛すぎて涙が出てくる。人生は思い通りにいかないことだらけなのはわかっているつもりだけど、あまりにも思い通りにならなすぎるのだ。強くてニューゲームシステムのRPGで最初に難易度を選ぶ時に間違って「EXTREME HARD」モードからプレイし始めてしまって激しく後悔に苛まれる感覚である。しかも1回モードを選択したらクリアするまで難易度を変更することは出来ない。もうこちらとしては為すすべもなくゲームオーバーである。うんざりしてそのままゲオに直行なのだ。

 

 どうすればもっと上手く労働と向き合えるのか、どうすればもっと上手く生きられるのか、そんなことを土日で考えようとするけど結局Netflixに時間と金を搾取されて終了してしまう。そういうことを空いた時間で考えるのは無駄な行為なのかもしれない。

 

 コロナウイルスだか死のデッキ破壊ウイルスだか知らないが、外に出ない人間を肯定した時点でもうその役割は終わっているのだ。人と人との接触を避けなければいけないという風潮は対人恐怖症の気がある自分にとっては正直かなり恩恵を受ける部分ではあったが、そろそろジムに行って肉体を鍛えなければいけない。

 何にせよ、とりあえずはいろいろと変革が必要なのだ。

 

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在宅の病理と痴人の夢

 社会の情勢が変化しても皮肉なことに自身の私生活はあまりにも代わり映えしないまま続いていく。ウイルスが蔓延していても変わらず通勤し、変わらず労働する。そして明日を憂いながら震えて眠る。ずっとその繰り返しだ。果たしてこのサイクルを断ち切れるような日は来るのだろうか。

 

 国内では不要不急の外出を控えるような風潮があるが、もともと不要不急の在宅が僕の休日の楽しみ方なので私生活のスタイルを変革させる必要がない。いつものように家で出来る可能な限り自堕落な生活を全うするだけだ。今だからこそお家で楽しめることをしようというメディアの呼びかけも、ほぼインドア趣味の僕の耳には虚しく響く。ラジオ、漫画、小説、映画……これらの娯楽に日常的に触れていると「今だから家でも出来るこういうことをしよう」というモチベーションが湧いてこない。逆にもう何もしたくなくなる。というかもともと僕は本当に何がしたいのかわからない。ハチミツが絶妙な感じに溶けたカレーライスが食べたいとかコーヒー飲んでも秒速で尿意便意を催さないようになりたいとかそういう些末な願望はあるけれど、確固とした広大な生きる目的みたいな何かを持ち合わせていないからフワフワした生き方になってしまう。だから生きる原動力を持った人間を見ると無性に羨ましくなる。

 そしてあくまで私見であるがそういうエネルギッシュに生きる人間はバリバリ自分のやりたいことに金を投資しては働き、投資しては働きを繰り返しているからあまり貯金が無いイメージがある。無論上手いことやりくりして金を多く持ちながら自分のやりたいことをやっている人間もいるだろうが、大半は貯金があんまり無い気がする。それに対して皮肉なことに、交友関係が狭く熱中出来る趣味が無いと金は自然と貯まっていくものだ。僕の場合それらに加え実家暮らしなので使用用途未定の経済的価値を持たない貨幣がどんどん蓄積していく。持っていても使わないのならそれはゼロと同じ、という論理からすればある意味僕は一文無しなのかもしれない。

 

 そんな経済的にも社会的にも一文無しの僕でもたまには外出をする、というか強いられることがある。

 先月コロナウイルスの一件があってマスクの着用が促進されたので通勤時にマスクをすることが多かったのだが、マスクと自分の口の間に発生した空間のスメルが耐え忍び難いことに気付いた。普段から歯磨きを怠っているわけでもない僕がそうなので恐らく電車内でマスクをしている乗客はほぼ全員「マスククッッッサ」と思いながら通勤退勤していたのだろう。

 別に歯磨きをちゃんとしていないわけではなかったが、最近行ってないし念のためと思い僕は歯医者を予約することにした。電話をかけて予約しようとすると「2月はもう予約でいっぱいなので3月の中旬になってしまいますね」と言われた。どうやらコロナウイルスはマスクの着用を促進させることで国民に自分の口臭を改めて自覚させる契機となっていたようだ。きっと全国的に「いやマスククッッッサ!俺の口内環境ヤバすぎ……?もしもし歯医者さん?今すぐ俺の歯垢を隅から隅までくまなくねっとり舌で舐めとってくれる嬢を自宅まで派遣してくれませんか?」「すみませんがうちでそういったサービスは提供しておりませんので……」「じゃあ普通に予約お願いします」「かしこまりました、他にオプションのご希望はございませんか?」「え、オプション?え、どっち?さっきあんなこと言っといて何だけど俺今歯医者に電話かけてんだよね?そういう特殊な店じゃないよね?」「(ガチャッ!ツー……ツー……)」「………………(ガバッ!)ハァ……ハァ……夢か……あ、もしもし歯医者さん?歯垢除去舐め取りオプションつけての検診の予約お願いします」「は?警察呼びますよ?(ガチャッ!ツー……ツー……)」みたいなやりとりが行われたに違いない。ともかく僕は3月の中旬に予約をして歯の状態を見てもらうことにした。

 

 そして月日は流れ3月中旬当日、午後にその歯医者の検診があったので午前中映画館で劇場版SHIROBAKOを観て感涙した後歯医者に寄って歯の状態を見てもらった。

 まず治療椅子に座り女性の歯科助手に口内をチェックしてもらい、「ちょっと歯と歯茎の間に垢が溜まりがちかもしんないですね~」と言われドリルでキュイイィィイイイイイィィィィィィンと歯垢を削られた。いやはや何歳になってもあのドリルは嫌なものだ。刺激されてはいけない神経が刺激されている気がする。たまに鋭利な激痛が走る時があるが、子どものように「ママアアアアアアアアアア痛いヨオオオオオオオオオオオオ」と泣き叫びたくなってくる。しかしそこはもう大人、叫び出したいのを堪え痛みに耐えながら治療を受ける。

 だんだんと痛みに慣れ、精神的に落ち着きを取り戻すと今度は別のあることが気になってきた。頭部に押し付けられ当たっているものが…………。そう、当たっているんだ…………。当たっている……。突如いきものがかりの「♪笑ってたいんだ」の曲調で脳内に再生される「当たってたいんだ♪ぼくはずっと 当たってたいんだ♪」という歌詞。いかんいかん、煩悩を振り払わなくてはいかん。何か気持ちが萎えるような嫌なことを考えよう。すると「仲良くない人間しかいないLINEグループが急に動き出してアルコールを大量摂取する目的の謎の会合を開催しようとしているから早く『行けません』という5文字を送信しなくてはいけない……ッ!」という目を背けたくなるような現実を思い出した。なんで人間はLINEグループという名の精神汚染剤を発明してしまったのだろう。LINEの創始者に対する怨恨を脳内に充満させると頭部に感じていた柔らかい感触も多少は気にならなくなった。しかし今度はいかんせんドリルが痛い。治療を開始する際「苦しかったら手を挙げてお知らせください」って言われてたけどあまりの痛みに耐えかねて手を挙げてしまいそうだった。耳に鳴り響くキュィィィィィィィィイイイィィィンという音。痛覚はしょうがないにしてもあの聞くからに痛そうな音どうにかならんのかね。それこそドリルの回転音をエミネムの楽曲に変更出来るオプションとか付けてほしいわ。それだったら辛うじてラッパー精神で乗り越えられる気がする。しかし当然そんなことは出来ないのでただひたすら我慢。あぁ~痛えなぁ~痛えなぁ~辛いなぁ~こんな我慢してんだからなんかご褒美くれよ~と注射を我慢した後にご褒美を親にねだる子どものような心境になっていると、また頭部の柔和な感触が気になってきた。やはり当たっている……。歯に当てられているドリルの他にもうひとつ間違いなく当たっているものがある……。先生、先生このままでは下半身のドリルも回転して同時二重稼働になってしまいますという文言が脳に浮かび上がってきたところでふとあることに気付いた。もしやこれがご褒美代わりではないのか……?ドリルによる痛み、それを中和させるためにチェストが頭部に押し付けられているのではないか?そうだ、これはいわばアメとムチ、患者をドリルの痛みで発狂させないように胸部が頭部に押し付けられているのだ。逆に歯科助手側から言えば私があなたの頭部に御胸を当ててやっているのだから少しは痛いの我慢しなさいよねという話なのである。つまりプラマイゼロだ。その証拠に、ドリル治療が終わった後のブラッシングケアの最中には僕の頭部に何も当てられることはなかった。ブラッシングケアはただ歯の表面をなんか匂いのするブラシで磨くだけで痛みを伴わない、確かに痛みを伴わないなら俗に言う当てつけ押し付けサービスは行わなくて良いのだ。僕はなんて愚かなんだ。危うく治療室内で稼働させてはいけないドリルを稼働させるところだった。

 その後も治療は続き、最後に院長から「今のところ虫歯も何もないので大丈夫ですよ」と言われたので僕は颯爽と歯科医院から退出した。外は間断なく重たい雨が降っていたが、対照的に僕の心は晴れやかになっていた。帰宅した後、パソコンでFANZA 白衣」と検索することが僕の虚無な日常に僅かでも彩りを与えてくれそうな気がしたから__________。

 

 

                                                                            

 

 

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虚妄

 私の休日は小鳥の囀りから始まる。6時に起床、シャワーを浴びてスクランブルエッグとマフィンを珈琲で流し込む。カーテンを開け、日光を大量に浴びながら清々しい面持ちでベランダに出る。耳をすませば青空の讃美歌が聞こえてくるようだ。嗚呼、世界はなんと美しいのだろう。胸いっぱいに息を吸い込む。尿意を催したので私はベランダに置いてある植木鉢に水やりがてら放尿し、部屋へ戻る。

 気付けば時刻は8時、そろそろ外出の準備をしなければならない。私は一回全裸になって全身にアロマオイルを塗りたくり、しまむらで購入したおそらく店内で一番高額だと思われる衣服を身に付け外へ出る。

 山手線に乗車し、うっかり5時間ばかり寝過ごし慌てて秋葉原駅で降車。軽やかな身のこなしでメイドカフェへ入店し、真実の愛の存在を確認したところで「釣りはいらんよ」と言い放ちスマートに会計を終わらせ店を出る。

 午後4時、新橋に降り立つ。適当なコンビニに立ち寄り、ストロング缶を3本購入。駅前の開けた場所でそれらを一気に飲み干し酩酊状態に体をもっていく。ここで新橋の酔っ払ったサラリーマンを取材に来るテレビ局のカメラを待つこと3時間、見ず知らずの有象無象から奇異の視線を向けられるだけだったのであえなく撤退。

 午後8時、千鳥足で池袋のバーに入店。しかしストロングの悪辣な仕打ちにより脳が機能を一部停止していたらしく、入店したのはどうやらバーではなくいかがわしいパブだったようだ。「ここはもしや吐瀉物を使っていかがわしいことをするような場所か?」と努めて平静なトーンで聞くと受付の店員が周囲の社員と相談して携帯のキーパッドに110という数字を打ち込み始めたので、慌てて小学生時代図工の時間に自作したFBIのIDカードを見せると途端に静寂が訪れた。やはりFBIという名前は有効だったようだ。その場にいる全員が私の特異性に魅せられているようだった。こんなところにいても仕方がない、そう思った私はよくわからないそのいかがわしげな店を脱け出し、煙草を吸っているフリをしながらチャッパチャップスをしゃぶって道を歩いた。

 メルカリで30万円で購入した『ジェネリックロレックス(中華)』という名の腕時計を見ると時刻はどうやら午後10時らしかった。もう家に帰らなければならない。

 家に帰り、電気を点けると飼い犬のパピヨンが尻尾を振りながら駆け寄ってきたのでコンビニで買ってきたビーフジャーキーを与えた。

 こんな休日も悪くない。そうだろ?私はかじりかけのビーフジャーキーに問いかけた。

 

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賀正

 最近ブログを書くことに意義を見出せなくなってきた。昨年は通算22件もの記事を書いたが今見返してもほとんどが大して中身のあるものではない。稲川淳二的な感覚で「辞めたいなぁ~辞めたいなぁ~なんだか仕事辞めたいなぁ~」と繰り返しているだけなので。

 

 本来ブログを書くという行為は、書いている自分自身と読者の両者にとって有意義なものであるべきだ。よく人生はインプットとアウトプットの連続だと言われているが、このブログがアウトプットの機能を果たしているとは到底思えないし、読んでいる人に何かを与えるわけでもない。

 何故私は無機的な文章しか書けないのだろうか。それは恐らく人生経験が常人よりもはるかに浅薄であり、能動的なインプットを怠っているからだろう。中身がスッカラカンな人間が捻出出来るものはほぼ何もない。インターネットの海を漂流しているだけでは駄目なのだ。井の中の蛙大海を知らずと言うように、ネットの中のオタク現実を知らず、インターネットで有為なことを発信出来るのは現実で有為なことを受信した場合だけなのかもしれない。ネット全体を否定する訳ではないが、無益なネットの使い方をやめれば必然的にネットに接する時間は必要最低限になるはずだ。現実から逃げずにちゃんと向き合い、多様な経験を積んだ人間が書くことによって初めてブログが価値を持ったものになるのではないだろうか。一年前も全く同じこと書いた気がするけど。

 人生経験談的ブログにしても知識披露系ブログにしても「インプット→著者自身の思考→アウトプット」というのが理想形であり、仲介地点に位置するブログの著者自身がスカスカであればスカスカである程にただの量産型文章になってしまう。ブログは誰が書いてもいいのであり、多様性を反映させ得る媒体となり得るからこそ、他人とは異なった独自の経験、思想が価値を持つ。そしてそのような独自の視点を持つためにはやはりインターネットから少し離れて現実でなんか行動を起こすことが必要だ。インターネットは誰でもアクセス出来る。だからこそ、自分にしか出来ない体験をすることが肝要なのだ。

 

 自己啓発本の安い受け売りみたいなことをつらつらと述べてきたが、このままでは本格的に何の取り柄もなく、ただ本能の赴くままに生きるカスみたいな生命体に成り下がってしまうという危機感が如実に沸いてきたので2020年は積極的に行動することで社会的に評価される教養ブログを書けるようになりたいと思う。まあ今日も家から一歩も外に出てないんだけど。いや、街中でナンパするVRAVの視聴は広義では外出としてカウントしていいから厳密には外出しているな。

 

 

 

 それと申し遅れたが明けま、明け、アッ、アッ………明けまし………………、私は新年が明けたことを全くおめでたいことだとは思わない。誕生日を祝われるのが嫌いな人間が一定数存在するように、私は新年を祝すのが好きではない。時の流れを感じて嫌になるからだ。

 

 

 というのは冗談で、「あなたの周囲にもこんな妙な尖り方をする痛々しい人間がいませんか?」と問いかける社会風刺的ギャグだ。

 

 文章が迷走し始めていよいよ本格的に無価値な時間を読者に与えてしまうので(もう与えているが)ここで終了とさせていただく。

 ここまで読んでくれた読者諸兄には感謝の意を込めて親戚のおばちゃんから何故か突然図書カード1000円分が送られてくるように精一杯お祈り申し上げておきます。

 

 まあ結局何が言いたかったのかというと今年もこの存在意義が曖昧なブログを暇つぶしがてらに読んでくれると嬉しいということです。

 

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非難と尊重

 今年はサンタさんに『中を開けると死を超越出来る四次元空間が無限に広がっている棺桶』をおねだりしたのに僕のもとにサンタさんは来なかった。自分なりに良い子にしていたつもりだったのだがもしかしたらコンビニおにぎりの包装紙を『プラスチックゴミ』ではなく『燃えるゴミ』の方にブチ込んだのがサンタさんの逆鱗に触れたのかもしれない。でも包装紙に海苔のカスが少しでも付着していれば『燃えるゴミ』の方に捨てたっていいんじゃないのか。そもそも捨て場所は『プラスチックゴミ』の方で合っているのか。コンビニおにぎりの包装紙はプラスチックから精製されているのか。セブンイレブンの商品は他社と比較したら本当に品質がやや高いのか。世の中よくわからないことが多すぎる。

 

 今年も色々なことがあったけれど、4月に新卒社会人として労働し始めてからはほぼ感情の起伏が皆無に等しかったので実質僕が今年、生の実感を持って生きた時間は約3ヵ月しかない。働き始めると当然だけど一日の大半を労働に費やすことになるから他のことに手を出す時間も労力もなくなってくる。ふとした瞬間に何か新しいことを始めてみようという気も起こりはするがやはり時間的な制約もあってなかなかモチベーションが持続しないし集中も出来ない。仕事に支障が出ないよう十分な睡眠時間を確保することを最優先にしてしまうから布団の中に潜り込んで念仏のように「もうやだ……辞めたい……行きたくない……行きたくない……嫌だ……ンオォォォォォォン(´;ω;`)」とブツブツ唱えるのが日課になってしまった。

 休日だけでもせめて有意義に過ごそう、と思っても労働は必ず脳内のどこかに存在している。日常が労働に支配されているのだ。働いている時は休みのことを考え、休んでいる時は仕事のことを考えている。

 

 一体どうすればこの状況を改善出来るというのだろう。どうしてこんなに会社に行きたくないのだろうか。よくよく考えてみると、共に働く人間が全て人懐っこいバニーガール(露出面積が広い)だったらむしろ俄然仕事に行くし朝もいつもより2時間早く起きて万全なコンディションで出社するに違いない。ということは結局人間関係が良好なら労働は苦ではないのだ。もっと厳密に言うならこの国の労働環境が最悪だとか宣われているのは仕事場にバニーガールやナース服のコスプレをした人懐っこい女性がいないからであり、新聞などで「人手不足の現状」とか書かれるのも当然なのである。新聞はもっと具体的に「労働意欲が沸いてくるような煽情的な衣類を着衣した女性が不足している」と書くべきなのだ、さもなくば国家が崩壊するかもしれないのに一体何を勿体ぶっているのだろう

 

 

 そんな幻想への憧憬を抱きつつ、ボーッと日常をやり過ごしていたのだが、この間実家の自分の部屋もとい精神年齢6才部屋でおじさんの如くテレビを見ていると漫才師の頂点を決める大会『M-1グランプリ』が放送されていた。僕はお笑いが熱烈に好きなタチではないので、ほんの興味本位で見るぐらいの感覚で見ていたのだが、途中で『ぺこぱ』が出てきてからは見る目が変わった。全てを否定せず肯定するスタイルの芸風、これは斬新だ。見ていると謎の勇気と自信が湧いてくる。この肯定的なスタンスはまさしく今の時代に求められていたものだ。実際に『ぺこぱ』の漫才は令和の新しい形の漫才として世間に大きな反響を呼んだ。

 何故『ぺこぱ』の肯定的なツッコミが心地よく感じたのかを考えてみたが、やっぱり今の時代はストレスフルで全体的に不寛容だからだろう。昔に比べて制約が多くなった今はメディア上で芸能人が何かを発信するにもかなり気を遣わなければならなくなった。ジェンダー問題とか人種問題とかその他諸々のシリアスな問題について言及する時には必ず人間の尊厳を意識して発言しなければならない。少しでも差別意識の垣間見える発言がされるとここぞとばかりに糾弾される。無論それは正しいことなのだろう。ただ、あまりにもそういった傾向が強いと、何か能動的に人間の汚点を見つけ出して晒そうとする意地汚い魂胆も世の中に存在しているのではないかという気がしてくる。これでは言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズン状態の人間が大量発生してしまうし、そうした抑圧は過大なストレスを発生させてしまう。

 

 個人的な見解として、今の時代は世相的に「弱きを助け強きを挫く」という精神が強くなっていっているように思う。社会的に力を持たない人達は尊重されて然るべきだし、無力な人間を迫害してきた人間は弾劾されるべき、そういう世の中だ。だから悪しき人間を弾劾すべきなのは当然だが、そういった傾向が強まってきているからこそ、「本当にそこまで非難する必要ある?」という人間まで非難されてしまうことが起こり得る本来なら弱いとか強いとかそういう区分を排除して、ただ人類はみな平等なのだという通念を浸透させるのが正しい道だと僕は思うが、その平等のバランスが偏りがちなのだ。

 

 実際に『M-1グランプリ』で『ぺこぱ』の漫才を見た読者諸兄ならわかるだろうが、漫才の中でボケの方はツッコミの人間をタクシーで轢きそうになったり、運転してる間突然休息を取ったりと一見大衆からは非難されがちな行動を取っている。だが、『ぺこぱ』のツッコミはそれらの非礼とも言える行為を寛容に受け止め、あくまで自身の方に非があるのであり、相手の行為は尊重するべきなのだという姿勢を一貫して崩さない。

 つまり『ぺこぱ』は前述した『尊重されるべき弱者』と『非難されるべき強者』の『強者』の方にも優しいのである。だから平等のバランスが偏りがちな現代において、『ぺこぱ』は上手い具合に人間関係を円滑にさせる力を持っている。

 

 

 良好な人間関係を築くには『ぺこぱ』のように相手を尊重することが必要不可欠だ。職場にバニーガールがいなくてもいい、「何故あなたは胸元が過剰に開いたナース服を着たOLではないのですか?」という問責をしなくてもいい。ありのままの相手を受容することが重要だ。

 

 

 

 しかし本音を言えば嫌な人は嫌だしありのままの人間性を受容出来ない時だってある。どのコミュニティに所属していても苦手な人がいるのは仕方ない。

 ならどうすればいいか、それはそのまま人間関係の不和を我慢するか、環境を変えるかの二択しかない。やはり正解は転職サイトの中にあるのだ。結局「今の仕事を辞めたい」というネガティブなメンタリティは変わらないのかよ。でもそれはそれでいい

 

 よいお年を!

 

~Merry Christmas Mr.Lawrence~

 

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鼓舞

 忘年会の締めの挨拶で「ONE TEAM」という言葉を用いる上司に1年後「去年の忘年会の締めの挨拶、自分がなんて言ったか覚えてますか?」って聞くと大多数が「覚えてない」って言うと思う。そういう世俗的な人間は大体軽薄な気持ちでしか発言しないから。

 

 

 

 遂に今年もこの季節がやってきた。出来れば1年で1番忘れたくなるようなイベントこと忘年会、まさにダブルスタンダードの権化。

 今年の年末は四方八方の居酒屋で「ONE TEAM」という言葉が飛び交うに違いない。

中身のある挨拶を考えられない人間にとって流行語というのは非常に使い勝手がいいからだ。

「え~今年もいろいろありましたが来年からも社員一丸となってですね、そう、ONE TEAMで苦難を乗り越えていきましょう、乾杯!」みたいな文言が発されまくるのだろう。そしてそれを受けて大半の社員は心の中で「うるせえよ誰がチームの一員だ、肉体的には在籍していても精神的にはとうの昔に脱退しとるんじゃ!」と喚きながら表面上は引き攣った笑顔で「カンパーイ!(笑)」と唱和するのである。その様はなんというかもう笑っていても実質笑っていない男だし、「完敗~!」と言いながら社会に完敗してしまった男だ。

 

 

 

 そんな鬱屈とした世の中だからこそ個人的に今年の流行語は「ナイスですね!」であるべきだと思う。忘年会では「ONE TEAM」より「ナイスですね!」を多用してもらいたい。

「いや~資料紛失過多夫くん、今年もいろいろな資料を紛失してしまったけれど何回注意してもめげずに資料を紛失してくるその心意気、ナイスですね!」

「遅刻大杉屑太郎くんねぇ、今年も遅刻日数過去最多更新だよ!毎年遅刻日数を更新してくるというその睡眠への飽くなき欲求、ナイスですね!」

「締切期限絶対杉男くん!今年も一回も期限内に書類を提出しなかったけれど来年は期限を守ってくれるのかな?え?未来永劫守るつもりはない?素晴らしい!首尾一貫としたその姿勢、尊敬に値しますナイスですね!」

こういう感じで「ナイスですね!」を半ば強制的に言うように仕向けさせられればなんか場がそれなりに和んでくるし、精神的な負い目を感じていても「ナイスですね!」と持ち上げられることにより謎の自己肯定感が湧き上がってくる。

もしかしたら「ナイスですね!」は万能の言葉なのかもしれない。

そうだ、『全裸監督』は今の時代に必要なことを教えてくれる最高級に良質な作品だったのだ。

 

 だって「自分はこの会社に必要ないんじゃないか?」と思った時や上司に散々パワハラされたり人間性を否定されたりした時に「お待たせしました、お待たせしすぎたのかもしれません」と言って退職届を突き出せば何でも許されるような気がしてこないか?

僕はしてこない。

 

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性と時勢

 

 ベルギーで9歳の少年が大学を卒業しようとしているというのに日本では23歳の青年が未だに童貞を卒業出来ていない。ベルギーの少年が神童と称されるならこちらは神の領域に到達した童貞、そうつまり意味は違えど神童と言っても間違いではないのだ。これは深刻な社会問題であり、早急にメディアに取り上げられて然るべき議題である。

 

 

 

 昨今は何かと窮屈な世の中になってしまった。男女で区別して何かを語ろうとするとジェンダー、性差別、セックスレスドメスティックバイオレンス、ドンタコス等々、あらゆる観点から批判を唱える輩が後を絶たない。「男は~」とか「女は~」から始まる文言で揉め事が頻発するのを見るとそもそも人間に性別が与えられたことが不幸な出来事のように思えてくる。

 

 

 23歳交際経験皆無"神童"の身から言わせてもらえば異性にある種の憧憬を抱く以上、そこから生じる問題にも責任を持たなければならない。そもそもどうして男性と女性の性差で議論がとめどなく繰り返されるかというと人間を男性と女性というカテゴリーで分類するからだ。男性と女性という区分があるからこそ男女の恋愛という概念が成立するのであり、それと同時に男性女性という区分意識が発生する。この区分意識が発生する以上はそこから派生する男女の差異意識は回避不可能に近い。要するに男性優位社会だとかフェミニストがどうだとかいう議論が発生するには男性女性がはっきり区別されていることが前提であり、その区別性をまるごと取っ払わないことにはこういったジェンダー的社会問題に終止符は打てないのである。しかし至極当然ながら人間は先天的に男であることや女であることを決定づけられているのであり、人間がそういった生物学的構造を持った生き物である以上はこの性差問題と表裏一体なのである。男女のロマンスを甘美なものとして認めるのならば、それに付随する労苦を覚悟しなければならない。ジャンクフードの美味さを追求しようとするならば、その素材に人工的な欠陥を認めなければならないのと同じことだ。人生は必ず天秤のように釣り合いが取れるようになっていなければならないというのが私の持論である。恋愛をするなら神が人間を男女という性で二分化したことに感謝し、それによって必然的に発生する男女間の諍いも受容しろということだ。結婚に夢を見るのなら家事の分担や出産時の立会いの有無で悶着が起こることを覚悟すべきなのだ。異性に対して一方的な憧憬を抱くのは極めて独善的だ。得をするためには何かしら損をしなければならないのが人生の常なのだから。『進撃の巨人』でも「何かを変えることができるのは大事なものを捨てることが出来る人」みたいな台詞があったけれど、局面をより良い方向へ転換させるには何かを失うことが必要不可欠なのだ。

 

 何かを捨て、大事なものが消えてしまうのが怖くて代わり映えのしない人生を歩んできてしまったとするならまだ救いはある。これから何かを変える決断をすれば良いだけだ。ただ、こちらの手元には捨てることで人生が著しく変わるような物を生憎持ち合わせていない。というか捨てることで人生が著しく好転するような物ってなんだ?プライドか?羞恥心?それとも違法薬物?違法薬物の場合は捨てることで好転すると言うより暗転しないような状態にもっていけると言うべきか。もう疲れた。何かを捨てないままここまで来てしまったからには、これから先の人生はスケジュールの空いている代役を立ててもらうしかない。肉体は健全な社会に存在していても精神はもう収容所の中なのだ。この忌まわしき俗世を生きるのにはもうウンザリだ。一足先にこの世界から足を洗わせてもらう。何か現世で言い残したことはありますかって?別に。

 

 

 

 こんなことを延々と考えているから世にも卑屈な"神童"が誕生してしまう羽目になるのだろう。日本はベルギーに恥晒しと揶揄される前に何とかした方がいい。純粋な異国の天才少年に対抗して究極に社会性の無い童貞がインターネットで"神童"と自称する様はまさに地獄絵図だ。そのうち秘密裏に『人妻になった壇蜜の私生活を垣間見る会』を自主開催しかねない。そうなったら首相が「中止!いややっぱり壇蜜のプライベートヌード見たいから開催!この国の威厳を、取り戻す!」とか言い始めていよいよ国家の終焉の足音が近づいてくる。もうこの国が衰退の一途を辿っていると言われても文句は言えまい。

 

 以上、笑いたくても笑えなくなってしまった男の無責任なタピオカ感想記事でした。

 

 

 

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