懊悩ーⅢ

※前回のつづき

 

 目を覚ましてゆっくりと瞼を開くと、真っ白な天井が見えた。どうやらぼくは病院の一室のベッドに寝かされているらしかった。

「おっ、起きた!起きたよ先生!琥太郎!琥太郎!聞こえる?」

「おお、無事か!?」

横を見ると、丸椅子に座った20代前半ぐらいの女性と、白髪交じりの髪をした初老の男性が心配そうにぼくの顔を覗き込んでいた。

「うー……ん」

ぼくはまばたきを繰り返し、ぼやけた視界をはっきりさせる。しばらくして、ようやくそれが姉の早苗とM博士であることがわかった。見慣れているはずの姉の顔は、泣き腫らした目の所為で少しひしゃげて見えた。

「ここは一体……?」

「ああ、琥太郎、もしかして何があったか覚えてない?」

「いや……少し不思議な夢を見たけど、それ以前のことが何も思い出せないな」

「そっか……じゃあ今から私が説明することを落ち着いて聞いて。あんたは……」

そう言うと姉はぼくの身に何が起こったかを滔々と語りだした。

 

 まず、ぼくは身に覚えが無いが投身自殺を図ったらしかった。家の2階から飛び降りたらしい。嫌な音を聞きつけた姉がすぐさま確認し、急いで救急車を呼んでぼくは一命を取り留めたものの、意識がなく昏睡状態で入院することとなった。両親と姉は突然のことでショックを受け、数週間はまともに頭が働かなかった。それまでのぼくに、特に異常なところは見受けられなかったからだ。やがて姉はぼくの部屋の引き出しから、一冊のノートを発見する。そこにはこう書かれていた。

『もう無理だ。これ以上自分自身の手で何かを選択出来ないのなら、死ぬしかない。それしか自分で選べる道が残されていないのだから。毎日のように出されるピーマンがその証拠だ。この家庭におけるピーマンは親による子への束縛、鎖の象徴なのだ。子供の人生を矯正させようという意志、子どもを支配しようとする強制力をピーマンは持っている。私は、鎖からの解放として死を選ぶのだ。』

 姉によれば、ぼくは昔からピーマンが嫌いで、両親、特に母はそんなぼくの好き嫌いをなくそうとピーマンを使った料理ばかり作っていたらしい。姉も実はピーマンがそこまで好きではなかったが、口うるさい母に折れて我慢しながらピーマンを食べていた。しかし弟のぼくはなかなか姉のように我慢することが出来ず、ピーマンを無理矢理食べさせられては毎回トイレで吐いていた。それを見た母はあろうことか激昂し、余計にぼくに対してピーマンを食べさせようと干渉してきた。「もう赤ん坊じゃないんだからピーマンぐらいちゃんと食べられなくてどうするのよ」と、毎回苛々しながら説教を垂れてきた。もともとああしなさいこうしなさいと要望の多い母親だったので、ピーマンを食べさせることに限らず、日常の些細なことまで事細かに指示してきた。ぼくは全て親の言いなりになるのも癪なので無視していると、ぼくの部屋まで押しかけてきて長々と説教してきたので、仕方なく母の言う通りにことを進めるしかなかった。姉はそんなぼくの姿を見て、あまりにも親が過干渉だと子が自分でものごとを考えて生きていく能力が失われていってしまうのではないかと危惧し、そう母に言ったのだが母は元来自分の思い通りにならないのをとことん嫌う性格なので、聞く耳を持たなかった。

 

 姉はそうした背景が、ぼくを自殺未遂に至らしめたのであり、ぼくが親の支配下ではなく、自分自身の手で起こせる行動としての死を選び取ったのではないかと推測した。ある意味、死はぼくにとって自由への架橋だったのかもしれないのだ。

 そして姉は、昏睡状態のぼくが目が覚めた時の精神衛生のことを心配し、M博士に相談した。M博士は夢の中だけではなく現実に存在するファンタジーアメイジングな存在だった。M博士は、最新の科学と心理学に長けていたから、迷うことなくぼくにある夢を見させる装置を使うことを姉に勧めた。それは、過去のトラウマや嫌なものを夢を見ることによって帳消しにし、良好な精神状態で人生を再開出来るようにするというものだった。姉は半信半疑ながらも、今までの博士の発明品の精密さ、そして博士の人に対する思慮深さを知っていたからその提案を受け入れることにした。かくして、ぼくは意中の女子がピーマンのことを想う夢を見た訳だ。

 

「どうだ琥太郎、今の気持ちは」

姉の話を一通り聞き終わったぼくに、博士が尋ねた。

「うん、まあまあかな。良くも悪くもない。全身がかなり痛むけど」

「そりゃそうさ、2階から地面に落ちたんだからな。生きているだけでも奇跡さ」

「そうか……そうだな、ぼくは……一体どうしたんだ、自殺を図ったなんて……実感が湧かないよ」

「琥太郎、洗いざらい話しておいてなんだけど、もうそのことは忘れなさい。はっきり覚えてないことを無理に思い出したって仕方ないわ。綺麗さっぱり忘れて新しい人生をスタートさせなきゃ」

「うん……まあ、それもそうかもしれない」

「うむ。そうだな。早苗の言う通りさ。ところでどうだ琥太郎、腹は空いてないか?」

「そう言われてみると、かなり空いてるかもしれない。ここ最近何も食べた記憶がないよ。見た限りぼくの身体に繋がれてるこの点滴で栄養を補給してたみたいだしね」

「そうよ。そろそろ味のあるものが食べたいよね」

「ちょっと待っとれ」

博士はそういうと病室から出ていき、3分ほどして何かを乗せた皿を持ちながら戻ってきた。

「ほれ琥太郎、試しにこれを食べてみい」

博士がそう言ってぼくの前に差し出した皿の上には、細切りにされたピーマンが盛り付けられていた。

 だが不思議と、ぼくはそれを見ても何も感じなかった。姉から詳しい話を聞いた後でピーマンを出されても、普通ならば生じるであろう驚き、戸惑い、不安などはなかった。

「琥太郎よ、ピーマンを目の前にして何か思うことはあるか?」

博士は大事な実験結果を確かめるような慎重な面持ちでぼくに言った。

「いや、特にないよ。不思議と何の感慨もない。ただぼくの目の前にピーマンがあるという事実だけしかぼくにはわからないよ」

そう言って、ぼくはピーマンを手で掴み取り、口に運び、ゆっくりと咀嚼した。

姉と博士が真剣な面持ちでぼくの顔を見守り、ぼくの言葉を待った。

 

 5分ほどが経過しただろうか。ぼくは皿に盛りつけてあったピーマンを全て食べ終えると、一呼吸おいてぼそりと呟いた。

「やっぱり苦いや。」