生の倦怠

 相も変わらず空虚な日々を送っているうちに気付けば11月になってしまった。今年もあと2ヶ月で終わるのだと思うと「嗚呼やっぱり今年も人生に何の大きな転機も訪れないで終わっていくんだなあ」と並々ならぬ諦観の念が湧き上がってくる。

 

 一体いつになったら喜怒哀楽の楽の感情を体得出来るのだろうか。社会人になってから怒と哀の比率が高すぎる。この前仕事帰りに電車に乗っていたら隣に座っていた女子高生がおもむろにカントリーマアムを食べ始めたので「俺の空腹を助長させるような行為はお前の学校の校則で禁じられてるんだが?」と憤慨してしまった。実際その女子高生の通ってる学校の校則知らんけど。今思い返せばそんなに憤慨するようなことでもなかったが僕がそういった些末なことで立腹してしまうようになってしまったのは現代社会における労働の弊害である。知らんけど。(そういえばSNSで「知らんけど」っていうのが自分の言葉に対して無責任で適当なイメージあるからあんまり使ってほしくないみたいな意見があって、まあ気持ちはわかるし概ね同意なんだけど発信した情報をあくまで不確定なものだと伝達することはある種の誠実さを帯びている様な気もしなくはない。知らんけど。)

 

 こうしてこのまま虚ろな目で日々を浪費していくと無機的に死を迎えることになりそうなので、意義があるのかはわからないが一週間単位で自分の身に起きたことを日記感覚でここに書き残していこうと思う。レギュラー番組を持つラジオパーソナリティが一週間ごとに近況を報告するように。とりあえず今週一週間は以下のような感じだ。

 

月曜日 仕事辞めたいな~と思いながら仕事をした

火曜日 仕事辞めたいな~と思いながら仕事をした

水曜日 仕事辞めたいな~と思いながら仕事をした

木曜日 仕事辞めたいな~と思いながら仕事をした

金曜日 仕事辞めたいな~と思いながら仕事をした

土曜日 記憶不鮮明のため述懐不能

日曜日 仕事辞める方法を探そうとするも脳を回転させるエネルギーが無いため虚無化

 

 こうして見てみると実質そこら辺のホラー映画で描かれる1週間の風景より恐ろしい。全くもって生の気配が感じられないからだ。そこら辺のゾンビ映画よりゾンビ度が高いかもしれない。

 

 休日に予定がないことが多いのが倦怠感を煽る要因だと思うので何か熱中出来るものを見つけたいものだが、そう思い続けてもう半年以上経過してしまったしもともと何にも関心が持てないような淡泊人間に設定されているのかもしれない。交友関係が乏しいのも鬱々たる日々の鬱々たる部分に拍車をかけている。異性との交流も同世代の人間と比較して圧倒的に少ない。少ないというかほぼない。

 

  世の人々は社会人になったら出会いが極端に減ると言うけれども、そもそもこちとら社会人になる以前から運命的な出会いが発生し得るような人格を持ち合わせていない卑屈で陰湿な野郎なのである。これから先も大して人脈を構築出来ずに『ポル〇ノハブ』と一蓮托生して退廃的な人生を歩んでいくのだろう。

 

 

 

 中学生の頃は大人になったら今辛い分の幸福が与えられるのだという自己暗示を頼りに生きてきた。そうやって艱難辛苦を積み重ね、累積した暗澹たる過去の報酬として輝かしい未来が与えられるのだと思い込んで生きてきた。

 しかし今のところ冴えない人生に変わりはない。一寸先は闇というが、もう前に進んでも後ろを振り返っても闇しかないのである。上を向いても下を向いても闇しかない、もう広大な宇宙規模の闇に内包されているとしか思えないのである。このままではあまりに無慈悲ではないか。人生というのは悪いことがあった後には良いことがあるように出来ているべきなのだ。落とし物の財布を交番に届ければその日の夕食は好物のガパオライスが出てくるように、不良の喧嘩を仲裁した日にはコンビニで買った弁当を食べる時店員にもらった割り箸を気持ちよく左右対称に割れるべきなのだ。例示が限定的過ぎて不適切だったかもしれないがとにかく今までホアキンフェニックス版ジョーカーの軌跡みたいな人生を送ってきた人間は仕事から帰ってきた時に橋本環奈がエプロン姿で玄関口に立って迎え入れてくれないと人生の釣り合いが取れないのである。それか深田恭子が膝枕してくれる人生でもいいし川口春奈がハグしてくれる人生でもいい。広瀬すずはなんか「〇〇君はなんでこの仕事しようと思ったの?」とか聞いてきそうで精神面に悪影響を及ぼす可能性があるので、広瀬すず側から濃厚な接吻を求めてくるなら甘んじて受け入れるといったところだろうか。

 

 幸いなことに明日は祝日なのでこの下らない文章をある程度精神的余裕を持って書くことが出来た。明日の夜にはもう労働への恐怖が全身を支配しているので腕が麻痺してパソコンのキーボードを叩くことすら出来ないだろう。

 

 週休3日が労働環境を改善するための最善策だとかなんだとかインターネット上では議論が繰り返されているけれど、得てしてそういう世俗的な願望を少なからず含んだ希望は叶えられにくいものだ。台風接近してるし明日はおそらく休講だな!と思った翌日に朝起きて空を見ると快晴であるケースの多発性を考えると、結局のところ必要なのは自分が最も受け入れたくない現実を受容する覚悟なのかもしれない。

 そう、現時点ではまだ諸々の覚悟が足りないのである。知らんけど。

 

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災厄

 秋風が移ろい、流れる季節の中でふと日の短さを感じるようになった。そろそろ忙しく過ぎる日々の中に私とあなたで夢を描きたくなる。

 読者諸兄は如何お過ごしだろうか。僕は元気に過ごしているとは言い難い毎日を送っている。

 仕事のストレスからかわからないが、先週から毎日のように腹を下すようになってしまった。おかげで一日に何回もトイレに駆け込まなければならない。下痢の腹痛というのは、皮肉なことにすぐにトイレに行けないような閉塞的な環境の中で生じやすい。電車の中とか、すぐに席を外せないような仕事をしている最中に限って突然襲いかかってくる。僕は生来的に腸が弱いので(貧弱そうなイメージを喚起させるのであまり言いたくないが)、そういう突発性の腹痛は何回も経験しているのだが、毎日のように下痢の腹痛が続くのは今回が初めてで「ん、もしかして本格的に死に近付いているのか?」と危惧せざるを得ない。

 毎日こんなキツい腹痛が続いては埒が明かないから仕方なく病院に行ったところ『過敏性腸症候群』の可能性があるとして整腸薬を出してもらった。『過敏性腸症候群』というのは発症の原因が未だにはっきり解明されていないが、神経質な人間やストレスを感じやすい人間が腸の調子をおかしくしてしまうような病であるらしい。なるほどつまり導き出される結論は今すぐ退職代行サービスを利用し、遺書を書き上げた後自宅から私物を引き上げて誰も自分のことを知らない街に繰り出し無銭飲食を飽きるまで繰り返さなければならないということだ。そして終いには海外から密輸された違法ドラッグでギンギンに気持ちよくなった後、この大空に翼を広げ宇宙の果てまで飛翔していかなければいけないということなのだ。それ以外の結論が果たしてあるのだろうか。

 

 しかしやはりというべきか現実は残酷なもので、いや、残酷であるからこそ現実は現実なのであって、僕は結局Netflixとかいうサブスクリプションサービスで束の間の現実逃避を試みるということでしかストレスの軽減処置を実施出来なかった。

 まあNetflixで映画を観ることは現実逃避になるが、精神療養として機能するのかはわからない。英語音声英語字幕で洋画を観ることで語学学習の代替となり、延々と配信中のポルノ映画を鑑賞するだけでTOEIC990点が取得出来るようになるという保証があるのなら実益性のある行為にはなるだろうが、そんな保証はどこにもないしそんなポルノ映画もない。悲しい。

 

 願わくば今の環境を変化させ得るような能力が身につく生産性のある行為をしたいものだ。休日はそういうことをして時間を潰したいけれど、今の仕事をこれから何十年も続けていかなければいけないのかという恐怖と不安、強迫観念に押しつぶされそうになって何をするにも身が入らない。

 Netflixでも観ることが出来る映画『ニューシネマパラダイス』に「何をするにしても自分のすることを愛せ」というような台詞があった筈だけれど、僕は今やっていることを心の底から愛せる気がしない。まず自分のことが好きになれないから人のことも好きになれないし、もともと人間そのものがあんまり好きじゃないのかもしれない。そうなってくるともう救済の余地がない。人間を好きになろうとする努力をしても、人間の悪い部分だけ敏感に感じとって殻に籠るような人間だから、もう僕は人間というよりネガティブという概念を具現化したような存在だと形容した方が適切なのかもしれない。

 

 僕は気持ちが行き詰まりそうになるとこうやってブログで文章を書いて自分の感情の整理をしようとするけれど、毎回結局終着点が曖昧になる。どこに着地するのが正解なのかわからない。モヤモヤした感情をモヤモヤしたまま文章に投影してモヤモヤしたまま日常生活を続けていく、もはやこうやって文章を書くことに意味などないのかもしれない。だったらこの文章に費やした約30分にはどんな意義があったのだろう、教えてくれ『ジョーカー』……。腹痛の所為で大好きなラーメンが食べられないというフラストレーションで発砲してしまいそうだ。実のところ、この世で本当に愛せるのはラーメンだけなのかもしれない(キアヌ・リーブス)。

 

 

 

追記:Netflixで『結婚できない男』という阿部寛主演のドラマを全話観た。現在放送されている『まだ結婚できない男』の前編。日本のドラマはどことなく陳腐で安っぽい感じがして個人的にあんまり見てこなかったけれどこのドラマはそんな自分でもなかなか面白いと思えるほどに良い出来だった。

 

 

 

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光明と隆盛

 僕は一応このブログで近況報告のようなものをしているつもりなのだが、改めて思い返してみれば「社会人になってなんだか精神が鬱屈とするな~鬱屈としてきたな~」ということを延々と申し述べたてているだけで何もこれといった変化が無い。変化が無い日常、そして精神面を逐一近況報告する意味があるのだろうか。そう思ったので今回は近況報告ではなく単純に自分の好きなものについて書こうと思う。

 

 先日『キングオブコント2019』が放送され、まあまあ巷で話題になった(多分)。僕は普段お笑い芸人のライブに足繁く通うほどのお笑い好きではないが、空いた時間に芸人のネタを某動画サイトで観ることはそれなりに好きだ。嫌なことがあった時にそういう動画を観ると一時的に気分がリセットされる。精神安定剤とまではいかなくとも、お笑いは僕に多少の勇気と希望を与えてくれるのだ(クッセェ~)。

 

 そんな中途半端なお笑い似非評論家の僕は毎年『キングオブコント』を適当に流し見していたのだが、今年の『キングオブコント2019』はいつもよりも期待値の度合いが違った。何故かといえば僕が個人的に好きな芸人が出場していたからである。『空気階段』だ。

 『空気階段』の存在を知ったのはちょうど1年前ぐらいだった。僕はその頃radikoのアプリで色々な深夜ラジオを聴くのが日課になっていて、ほぼ毎日のようにラジオを聴いていた。今思えば大学4年生の就職活動を終えた一番フリーなモラトリアム期間に一番時間を割いたのがラジオ聴くことって滅茶苦茶勿体無いな。まあいいや。ともかくラジオは僕の生活の一部みたいになっていた。

 ラジオ自体を聴き始めたのは2年前ぐらいで、オードリーのオールナイトニッポンが面白いとかいう噂だか何だかの情報を得たのが最初のきっかけだった。そこから深夜ラジオ面白いな~、めっちゃ内輪ノリだけど慣れてきたらすごい中毒性あるんだよな~と思い始めて色々なラジオ番組を聴くようになった。人によるけど深夜ラジオパーソナリティって結構私生活とか心情とか赤裸々に語ってくれるから聴き続けてるとまるで友達の話を聞いてるような感覚に陥るんだよな。僕に友達がほとんどいないからそう感じるだけかもしれないけれど。

 そうやって波及的に色々なラジオ番組を聴き始めている内に個人的に滅茶苦茶面白いと感じるラジオ番組を発見した。TBSラジオで金曜日の24:30~放送されている『空気階段の踊り場』である。この番組では芸人コンビ『空気階段』の2人(鈴木もぐら・水川かたまり)が人生のためになる教養をリスナーに提供してくれる。

 僕が『空気階段の踊り場』に惹かれたのは、この番組が人生追体験型ドキュメンタリーのような様相を呈しているからである。今ラジオクラウドというアプリでこの番組が初回から無料で聴けるようになっているが、第1回が放送された時点では『空気階段』はまだあまり知名度の低いコンビだった。その時には売れない芸人ならではの苦労話だったり、将来についての夢想だったりが聴けた訳だが、回を追う毎に芸人としての階段を着実に駆け上がり、徐々に話のスケールが拡大されていく。『空気階段』を知らない方々はラジオクラウドで『空気階段の踊り場』を初回から聴いてみてほしいが、アルバイトの話がテレビ番組の収録にシフトしていったり、恋愛の話が結婚の話に遷移していったり、なんというか如実に"人生"を感じさせる。仕事、恋愛、結婚、借金、不倫、音楽、労働、成長、涙、借金、競馬、麻雀、母親、父親、妹、離婚、借金など、トークテーマも重厚であり、極めて人生的なネタに事欠かない。パーソナリティである2人のキャラクターも申し分なく濃く、いつまで聴いていても退屈しない。ラジオを聴けばわかるが、この2人は社会という枠組みを踏み越えているような、どこかアウトサイダー的な雰囲気がある。そこもこの『空気階段』の魅力であり、『空気階段の踊り場』は僕の中ではもはや精神的支柱のようなラジオになってしまった。

 

 そんな『空気階段』が今年の『キングオブコント』の決勝に出場するかもしれないという情報を見た時、素直に応援したいという気持ちが湧き出てきた。僕は野球に全く精通していないので好きな球団などが無いのだが、好きな球団を応援する野球チームファンの気持ちが少しわかったような気がする(生意気)。

 

 そんな訳で、『キングオブコント』を今年はスポーツの試合を観戦するようなスタンスでちゃんと観てみたのだが…結果は言わずもがな。

 

 僕は卑屈な人間だから、まだあまり認知されていなかった好きな漫画がアニメ化されて知名度が上がり、自分以外の人間がその存在を認知することに謎の抵抗があるのだが、今回の『キングオブコント』でも『空気階段』という面白い存在が世に知れ渡ってしまうことに葛藤を抱いていた。だが、彼らのコントに対する想いを垣間見ることが出来た今は、素直にもっと売れて欲しいと思えるようになった。そして願わくば、僕のようなアウトサイダー寄りの人間たちに、彼らなりのバラエティ性に富んだ最高に面白い生き様が、希望を与えてくれることを夢見るばかりである。

 

 

 

 

 改めて読み返してみるとこの文章書いた奴滅茶苦茶気持ちわりーな。絶対学生時代に教室の片隅でニヤけながら無言で携帯とか弄ってただろ。

 

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弁明と補足

 『弁明と補足』……今更だけどこのブログのタイトルなんか妙に厨二臭くない?と思っているそこの貴殿貴女、その感覚は正しい。

 普通ならもっとわかりやすいタイトルをつけるべきだろう。「帰り道犬のウンコを踏んだ話」とか「結婚を諦めて樹海に突撃してみた話」とか「松屋のカレーが予想以上に辛すぎて松屋付近を歩くと蕁麻疹が出るようになってしまった話」とか、具体的にどんなことが書いてあるのかわかるのが良い見出しというものだ。

 

 では、何故こんな抽象的でわかりにくく、かつ厨二臭いタイトルをつけるのか。

それは……申し訳ないが特にこれといった理由は無い

 強いて言うならこのブログの最初の記事におふざけ半分で『絶望の産声』とかいうタイトルをつけてしまったため、なんか後に引けなくなり、もう厨二路線で統一しちゃお、と思った次第である。

 

 

 

 

 読者の方々には「次はどんなことが書いてあるのかな~」ではなく、「次はどんな厨二臭いタイトルの記事が投稿されるのかな~」という姿勢で待機してもらうというスタンスだったんですね、実は。というか、そもそもこのブログの投稿を待機してくれている読者の方は存在するのでしょうか。仮に実在しなかったとしても具体性に欠ける見出しの記事ばかり投稿している自分の所為なので文句は言えませんが。もっと具体的なタイトルにすれば読んでくれる人増えるのかな~と思う時もありますが、一回決めたルールを変更することは己の信念に反するのでこのまま漢字厨二タイトルを貫いていこうと思います。なので現時点でこのブログを読んでくださっている方は今すぐ家中にあるチラシの裏にこのブログのURLを書いて窓の外にバラ撒いてください。運が良ければこのブログの読者が爆発的に増えますが、運が悪ければ地球の環境が汚染されて僕が法廷に出向かなければならなくなります

 

 まあぶっちゃけ今まで投稿した記事も大体自分のモヤモヤとした心象風景をモヤモヤと書いているだけなので具体的な見出しをつけろと言われてもそれはそれで難しいんですよね。

 あとこのブログの『secret box』って名称も「中身を覗くまではわからない」っていうニュアンスを含んでいたりいなかったり、現実で伏せてしまいがちな本当の心情を吐露する場所というニュアンスも含ませたり含ませなかったりしています。

 

 そしてさらに付け加えるならこの僕のブログのID、『geniusinternetter』というのも「『天才インターネッター』という、如何にもバカがつけそうなID」という諧謔的な趣向を凝らしているわけです。"genius-of-internet"というネーミングもまた然り。

 正直もっと別のまともな名前にすりゃ良かったとたまに後悔しますが、どうやらこのはてなブログは一回IDを設定すると二度と変更出来ない鬼畜仕様になっているようなので諦めました。

 

 以上、ちょっとした補足でした。ここまで読んで下さった方々、また僕のブログを定期的に読んできて下さった方々(そんな存在はこの世のどこにもいないかもしれませんが)(卑屈)、ありがとうございました。これからも僕の拙い文章で書かれた記事を読んで下さると幸いです。

 

 

 追記:ブログを書いていると時間を音速で消費する。これで賃金発生すれば最高なんだけどな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

 

 

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過去と未来

 四季の中で一番好きなのは夏だ。夏という言葉から連想されるような青空入道雲向日葵風鈴の音水着のギャル水着の女子高生向こう側のプールサイドに体育座りして見学する女子…それら全てが折り重なってなんだか広大な世界を感じさせる。夏の始まりは毎回、何かしらが起こる高揚感がある。まあ23年間生きてきて一回も異性と一緒に海に行ったこともなければ女子と一緒にプールの授業を受けたこともないのだが。厳密に言えば小学生の頃は女子と一緒にプールの授業を受けたかもしれないが精神が未熟すぎてあの頃は全く異性というものを意識していなかった。

 僕は中学校で男子校に入学したから、思春期時代にプールの授業をした場所は悲しくもおよそ1クラスあたりの人数40(人)×2=約80の数の金玉がひしめき合うプールサイドなのだ。なんで僕は思春期時代におよそ1クラスあたりの人数40(人)×2=約80の数の金玉がひしめき合うプールサイドでプールの授業を受けなければならなかったのだろう。過去のことを思うと哀しくなる。

 

 もし男子校に行く選択をしていなければ…そもそも今の自分からすれば男子校に行く選択をした過去の自分はどうかしているとしか思えない。小学校高学年の頃、男女の間に見えない深い溝があったような気がしてなんとなく男子校を選択してしまった。ジュブナイルRPGのようにコマンドで何回も設定を変えて人生をやり直せたら『男子校』『共学校』『女子校』すべての環境を体感出来るのになぁ、と考えても意味のない願望だけが募っていく。

 

 人生は選択の連続だ。過去にあんな選択をしなければ今頃違った人生があったのだろうか、と度々思案する。考えても仕方のないことばかり考えてしまうのは本当に悪い癖だ。

 

 今この世の中で自分の選択に自信を持って生きている人間は何割くらい存在しているのだろう。

 人生山あり谷ありモハメドアリと言うように、誰しも感情が上昇する瞬間、そして下降する瞬間を経験しながら日々を生きている。自分の選択を肯定する日もあれば、否定する日もある。そんなことはわかっている。自分以外の人間にもその人間なりの人生があり、様々な悩みや葛藤があることを想像しなければならないこともわかっている。

 それでも、自分の抱える悩みや葛藤が他人のそれとは一線を画すものなのだと思い込みたい自分がいる。自分がした選択がその後の自分の人生に与えた影響は、他人のそれよりもはるかに不幸に作用してしまったのだと。

 

 大人は「幼い頃に思い描いていた夢を実現出来る人間はほんの一握りだ」と言うが、その言葉を従順に受け入れ堅実に就職することが正しいのかどうか、これは多分僕には永遠にわからない。こんなことを書いていると自分の精神の未熟さが浮き彫りになって嫌になってくる。本来ならこんな悩みは23歳が抱くものではない。14歳ぐらいから色々と思い悩み始めて、就職活動をする前に自分の中で結論を出しておくべき問題なのだ。今頃になってこんなことを考えている自分が、世間の流れから置いていかれたような人間に思えて恥ずかしくなってくる。大人になれよ、甘えた考えを持つな…という幻聴が聞こえてきそうだ。

 

 僕は今年の4月から新入社員としてごく一般的な会社に入って働いているが、たまに何のために働いているのかわからなくなる。無論日銭を稼ぐために労働しているのは間違いないのだが、周囲の楽しそうに働く人たち、希望する職に就けた同級生を見ているとこの世の真実はなんて不鮮明で曖昧なんだと嘆きたくなる(ちょっと自分でも何言ってるかわかんないが)。また、それらとは対照的に暗い表情で労働に従事する自分や三連休が三連勤に変化するという地獄のような体験をした大学の同期などを見ていると、社会は光と闇に二分化されているんだとしか思えなくなる。

 

 仮にこちらに非があるとすれば、不都合な真実を認める覚悟が足りないのだろう。気持ちを切り替えることが出来ないのだ。

 今の会社で上司に「大学時代に戻りたいですねぇ~」と漏らしたことがあるが、「皆同じこと思ってんだし時間は平等なんだからそこは気持ちの踏ん切りをつけような」と残酷すぎる指摘をされた。その瞬間僕の脳裏に浮かんだのは、分岐点が一気に消失して一直線になってしまったレールだった。そしてそんなことを思ってしまう自分に嫌気がさした。結局、自分は単に我儘なだけなのかもしれない、と思った。

 

 自分の好きなことを仕事にしたいと思い実際にその夢を実現させることの美学と、堅実に現実を見つめ、自分の中で折り合いをつけて真面目に労働することの美学がどちらもこの世に美学として存在する以上、どちらが正しい生き方なのかということを議論することは無為な行為なのかもしれない。

 ただ、自分がどちらの美学を選択すればいいのかという問題には議論の余地があるような気がする。というより、自分の選択がじわじわと時間をかけて映し出したものに対する感情の中にこそ、自分にとっての本当の美学が潜んでいるものなのだ、きっと。

 

 

 成人男性にしては幼稚すぎる悩みと幼稚な持論を長々と開示してきたが、とどのつまり僕は「現実とは残酷で非情であるものだ」ということを大義名分にして、軟弱な精神や現状を打開しようとする行動力の無さ、覚悟の無さを言い訳しているに過ぎない。

 今の状況に不満を覚えているならば自分から行動をして変えていかなければいけないだろうという思いと、変化を恐れる恐怖心、何かを変えようと思ってもそう簡単に変えられるほど現実は容易いものではないだろうという思いが激しくせめぎ合っている。

 

 人生は、難しい(突然の思考放棄)(糞みたいな結論)

 

 追記:もうすっかり涼しくなってしまった。冒頭で書いたように夏が好きだから秋が来ると無性に寂しくなる。陽が落ちるのが早くなったからか、行動が制限されるような気がして無力感を感じてしまう。人生を好転させたいのに、それに見合うエネルギーがこれからの季節湧いて出てくるのか不安になってくる。このまま漫然と日々を過ごしてしまうのだろうかという焦燥感が身を窶す。

 心身共に陽の光を求めているからこんな感覚に囚われるのかもしれない。陰鬱な人間は、いつだって光に憧憬の念を抱くものだから…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。…………。

 

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憤懣と提唱

 朝、電車に乗るといつもより乗客の数が少なかった。どうやら世間は盆休みであるらしい。僕は嘆息してしまった。自分が労働している瞬間に労働していない人間がいるという現実を如実に感じて気が滅入る。労働という概念を世界で最初に考案した人間は一体誰なのだろう。多分極端に真面目な人格だったに違いない。それでなかったら単純な人格破綻者である。まともな精神性を保持していれば働こうなんて絶対に考えない。今すぐタイムトラベルして労働という概念を産出した人間に「労働なんてするより家で永遠にスプラトゥーンやってた方がはるかに幸せな人生を送れますよ」と言いたい。まあその時代ゲーム機なんか無いだろうけど。というかそもそも僕はスプラトゥーンというゲームをやったことがないので結局机上の空論である。

 ともかく労働は嫌なものだ。しかし万人にとって労働が嫌なものであるという訳ではない。やりたくないことをやるのが仕事だと割り切らなければやっていけないような人間もいれば、その傍らでアドレナリンを放出しまくりながらポジティブに仕事に取り組む人間もいる。後者になれればいいが前者になってしまうともう人生は永遠に下降していくジェットコースターのようなものである。気付けば20代、30代を虚心状態で駆け抜け、体感5分で40代を迎えてしまうのだ。そして自分でも気付かぬ内に婚期を逸し、肉体が朽ち果てるのが先か自意識が消滅するのが先か、という世にも恐ろしいゾンビの成れの果てが出来上がる。どうしてそんなことになってしまうのだろうか。運命は時に残酷すぎる。少しぐらい人生に希望を見出させてくれても良いではないか。だが悲しきかな、無情にも一度悪い方向へ転んだ人間が再び立ち上がるのには莫大なエネルギーと運が必要なのだ…。

 労働を一度でもネガティブに捉えたことのある人間は常に転落の危険性と隣り合わせだ。社会人というものは労働を通じて社会と接している。生きる日々が労働という概念に包容されているようなものだ。人生におけるこの貴重で有限な時間を捧ぐ価値のあることを自分はしているのだろうか…?と懐疑を抱き始めたらいよいよ精神の崩落の始まりである。有給休暇、ボーナス、福利厚生、退職金、職業選択の自由、様々な言葉が脳裏をかすめていく。…職業選択の自由……。そうだ、日本人には職業選択の自由憲法で保障されているではないか…。今すぐ辞職して映画館の座席にこぼされてるポップコーンを清掃する仕事に転職しよう…。いや、金融機関付近で挙動の怪しい人間を観察して警察に密告する仕事でもいいな…。…よくないな……。というか無理だ。

 職業選択の自由があるなら職業創出の自由があってもいいのではないだろうかと世に問いたい。考えてみればYoutuberなんかも職業として最近創出されたようなものではないのか。だったら自分も何か職業を創出してその職に就くことも非現実的な話ではないのかもしれない。

 しかし今本当に直視しなければいけないのはこの現実、この現状である。就職前において考えてみれば確かに職業選択の自由という面での自由は大いに保障されていた。だが就職後においてはその自由の幅がぐんと狭まってしまったように感じる。職業選択の自由とは職業変更の自由にも換言出来ないのか。どうも僕は一回所属した組織から脱出するという行為が苦手だ。所属した組織を離脱するということが軟弱な印象を与えるのではないかと変に強がってしまう。だから所属した組織を離脱するという行為を肯定的に認可してくれるような空気が必要なのだ。僕は中学高校大学とずっと運動部に所属していたけど、やはり辞めるという行為はあまり肯定的に見られなかった。海外がどうなのかは知らないが日本はどうもそういうことに対する非難の視線が強すぎる気がする。日本は、というのは広範な言い方かもしれないのであくまで僕の周囲は、と書いた方が正しいだろうか。ただ、実際にそのような空気が存在していることは歴然たる事実なのだ。辞めるということは短期的に見れば単なるストップに過ぎないかもしれないが、人生という長期的なスパンで考えればリセットなのだ。時計が不調をきたした時はリセットボタンを押せば再び新しい時を刻むようになる、それと同じだ。石につまずいたら石をどかして体勢を立て直せばいい、それだけの話なのだ。石をどかせない環境に身を置いていると永遠に前進出来ない。僕が言いたいのはそういうことだ(なんだか冗長になってきたので無理矢理収束させた)。

 現状を改革する行動は労力を伴う。何かを得るためには何かを犠牲にしなければならないのだ。決断には勇気が必要だ。

 ただ、僕は今の会社でお盆休み前に10連休を与えられていたのでこの出血サービス精神を垣間見せる会社を離れていいのだろうかと少し優柔不断にならざるを得ない。

 冒頭で愚痴を垂れてるのに結局10日間も休んでたんじゃねえかよと呆れられそうになったところで今回の記事は終わりとする。

 

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代償

 カフェインに強い人間として生まれたかった。元来腹が弱い体質なのでカフェインを含有した飲料を摂取するとかなりの確率でトイレに駆け込むことになる。学生の頃は眠気覚ましにと思いレッドブルモンスターエナジー等のエナジードリンクを飲んで試験勉強をしていたが、肝心の試験当日に腹が痛くなってまるで試験に集中出来ないという本末転倒な事態に陥ることがよくあった。そうしたことがある度にもう二度とカフェインは摂取しないと心に誓うのであるが、数か月後には全く同じことを繰り返して二の轍を踏みまくっていた。

 カフェインだけでなくラーメンにおいてもそうだ。僕はラーメンが好きで学生時代よく食べており、大抵スープも飲み干していたのだがいかんせん油の量が多いので食べ終わった後は大体腹を下す。トイレの個室の中でもう二度とスープは飲まん、一滴も飲まんと心に誓うのだが一週間後にはそんなことすっかり忘れて大盛特製ラーメンを注文し気付けばまたスープを飲み干している。そしてまたトイレの個室で自らの失態を呪うという負の連鎖が生じるのだ。

 何故過去の失敗を深く自省出来ないのだろう。ラーメンという目先の快楽に目が眩み思考が麻痺してしまっているのかもしれない。これを飲んだら絶対に後悔する、と思っていてもあまりにもスープが美味そうな色をしているとつい飲んでしまう。これでは目先の欲を優先して生き続けた結果破滅するダメ人間ではないか。そんな思いが頭の片隅にありながらもスープを飲んでしまうのは、もしかしたら今日は大丈夫なんじゃ…?そろそろ油に耐性がついてきて悪影響を被らずに済むのでは…?というような自分に都合の良いエゴイズムが台頭するからである。いやはや人間とは欲深い生き物である。

 そんな自分のことを棚に上げて言うのもなんだが、酒に関しても同じ事象が起きているような気がする。要は酒に弱い人間ほど酒を飲みたがる傾向にあるということだ。あくまで僕の周囲の人間の話だが。おそらく酒に弱い方がすぐに酔えて気持ちよくなれるのだろう。僕は比較的アルコールに強い方なので別に酒を飲みたいという欲求は頻繁に湧いてこない。本格的に酔うには凄まじくアルコール度数の強い酒が必要だから、なんというかまあ面倒なのである。

 結局何が言いたいかと言うとラーメンに関しても酒に関してもそれを欲するということはその真価、効能を理解しているということだ。本当のラーメンの美味さ、酒の美味さを知っているからこそたとえ後々腹が痛くなったり頭が痛くなったりしてもそれを追究出来るのだ。下世話な話だが男にとってのマスターベーションだってそうだ。行為に及んだ後は倦怠感が押し寄せてくるとわかってはいても一時の快感のために右手を動かそうとする。何かを犠牲にせずに何かを得ることは出来ないのだ。まさしく人生そのものではないか。

 

 まあ個人的には苦しんだ後にその報酬として快楽を感じるような生き方の方がはるかに理想的だけど。