過去と未来

 四季の中で一番好きなのは夏だ。夏という言葉から連想されるような青空入道雲向日葵風鈴の音水着のギャル水着の女子高生向こう側のプールサイドに体育座りして見学する女子…それら全てが折り重なってなんだか広大な世界を感じさせる。夏の始まりは毎回、何かしらが起こる高揚感がある。まあ23年間生きてきて一回も異性と一緒に海に行ったこともなければ女子と一緒にプールの授業を受けたこともないのだが。厳密に言えば小学生の頃は女子と一緒にプールの授業を受けたかもしれないが精神が未熟すぎてあの頃は全く異性というものを意識していなかった。

 僕は中学校で男子校に入学したから、思春期時代にプールの授業をした場所は悲しくもおよそ1クラスあたりの人数40(人)×2=約80の数の金玉がひしめき合うプールサイドなのだ。なんで僕は思春期時代におよそ1クラスあたりの人数40(人)×2=約80の数の金玉がひしめき合うプールサイドでプールの授業を受けなければならなかったのだろう。過去のことを思うと哀しくなる。

 

 もし男子校に行く選択をしていなければ…そもそも今の自分からすれば男子校に行く選択をした過去の自分はどうかしているとしか思えない。小学校高学年の頃、男女の間に見えない深い溝があったような気がしてなんとなく男子校を選択してしまった。ジュブナイルRPGのようにコマンドで何回も設定を変えて人生をやり直せたら『男子校』『共学校』『女子校』すべての環境を体感出来るのになぁ、と考えても意味のない願望だけが募っていく。

 

 人生は選択の連続だ。過去にあんな選択をしなければ今頃違った人生があったのだろうか、と度々思案する。考えても仕方のないことばかり考えてしまうのは本当に悪い癖だ。

 

 今この世の中で自分の選択に自信を持って生きている人間は何割くらい存在しているのだろう。

 人生山あり谷ありモハメドアリと言うように、誰しも感情が上昇する瞬間、そして下降する瞬間を経験しながら日々を生きている。自分の選択を肯定する日もあれば、否定する日もある。そんなことはわかっている。自分以外の人間にもその人間なりの人生があり、様々な悩みや葛藤があることを想像しなければならないこともわかっている。

 それでも、自分の抱える悩みや葛藤が他人のそれとは一線を画すものなのだと思い込みたい自分がいる。自分がした選択がその後の自分の人生に与えた影響は、他人のそれよりもはるかに不幸に作用してしまったのだと。

 

 大人は「幼い頃に思い描いていた夢を実現出来る人間はほんの一握りだ」と言うが、その言葉を従順に受け入れ堅実に就職することが正しいのかどうか、これは多分僕には永遠にわからない。こんなことを書いていると自分の精神の未熟さが浮き彫りになって嫌になってくる。本来ならこんな悩みは23歳が抱くものではない。14歳ぐらいから色々と思い悩み始めて、就職活動をする前に自分の中で結論を出しておくべき問題なのだ。今頃になってこんなことを考えている自分が、世間の流れから置いていかれたような人間に思えて恥ずかしくなってくる。大人になれよ、甘えた考えを持つな…という幻聴が聞こえてきそうだ。

 

 僕は今年の4月から新入社員としてごく一般的な会社に入って働いているが、たまに何のために働いているのかわからなくなる。無論日銭を稼ぐために労働しているのは間違いないのだが、周囲の楽しそうに働く人たち、希望する職に就けた同級生を見ているとこの世の真実はなんて不鮮明で曖昧なんだと嘆きたくなる(ちょっと自分でも何言ってるかわかんないが)。また、それらとは対照的に暗い表情で労働に従事する自分や三連休が三連勤に変化するという地獄のような体験をした大学の同期などを見ていると、社会は光と闇に二分化されているんだとしか思えなくなる。

 

 仮にこちらに非があるとすれば、不都合な真実を認める覚悟が足りないのだろう。気持ちを切り替えることが出来ないのだ。

 今の会社で上司に「大学時代に戻りたいですねぇ~」と漏らしたことがあるが、「皆同じこと思ってんだし時間は平等なんだからそこは気持ちの踏ん切りをつけような」と残酷すぎる指摘をされた。その瞬間僕の脳裏に浮かんだのは、分岐点が一気に消失して一直線になってしまったレールだった。そしてそんなことを思ってしまう自分に嫌気がさした。結局、自分は単に我儘なだけなのかもしれない、と思った。

 

 自分の好きなことを仕事にしたいと思い実際にその夢を実現させることの美学と、堅実に現実を見つめ、自分の中で折り合いをつけて真面目に労働することの美学がどちらもこの世に美学として存在する以上、どちらが正しい生き方なのかということを議論することは無為な行為なのかもしれない。

 ただ、自分がどちらの美学を選択すればいいのかという問題には議論の余地があるような気がする。というより、自分の選択がじわじわと時間をかけて映し出したものに対する感情の中にこそ、自分にとっての本当の美学が潜んでいるものなのだ、きっと。

 

 

 成人男性にしては幼稚すぎる悩みと幼稚な持論を長々と開示してきたが、とどのつまり僕は「現実とは残酷で非情であるものだ」ということを大義名分にして、軟弱な精神や現状を打開しようとする行動力の無さ、覚悟の無さを言い訳しているに過ぎない。

 今の状況に不満を覚えているならば自分から行動をして変えていかなければいけないだろうという思いと、変化を恐れる恐怖心、何かを変えようと思ってもそう簡単に変えられるほど現実は容易いものではないだろうという思いが激しくせめぎ合っている。

 

 人生は、難しい(突然の思考放棄)(糞みたいな結論)

 

 追記:もうすっかり涼しくなってしまった。冒頭で書いたように夏が好きだから秋が来ると無性に寂しくなる。陽が落ちるのが早くなったからか、行動が制限されるような気がして無力感を感じてしまう。人生を好転させたいのに、それに見合うエネルギーがこれからの季節湧いて出てくるのか不安になってくる。このまま漫然と日々を過ごしてしまうのだろうかという焦燥感が身を窶す。

 心身共に陽の光を求めているからこんな感覚に囚われるのかもしれない。陰鬱な人間は、いつだって光に憧憬の念を抱くものだから…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。…………。

 

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