懊悩-Ⅱ

※前回の続き

 

 昨夜はあまり眠れなかった。ぼくはいつものように身支度をし、スクールバッグの中に例の黒いキャップを忍ばせた。家を出て、通学路を一人でぽつぽつと歩く。ぼくは誰にも見られていないことを確認してから、バッグからキャップをこっそりと取り出した。そして、キャップのつばで目が隠れるようになるまで深く被る。一見すると不審者のように思われなくもないが、スクールバッグを持っているので問題ないだろう。視界が半分以上制限されたぼくの目は自然と通学路を歩くSさんを探していた。Sさんは同じクラスの女子で、スラリとした身体に端正な顔立ちをしており、とても成績が優秀だった。性格も優しく、それでいてしっかりとした自分の意志を持っていた。ぼくはそんなSさんのことがかなり気になっていた。正直、博士のくれたこの謎のキャップでSさん以外の頭の中を読もうという気は起きなかった。

 Sさんはいつもぼくの通学路の途中にあるやや大きい豪奢な家から出てきて、ぼくの前を歩いていく。Sさんは後ろからぼくが追うような形で歩いてきているのに気が付いているのかはわからない。学校でもぼくとは全く話さないし、おそらくぼくが後からつけてきていることは知らないのだろう。傍から見ればストーカーのように見えなくもないが、ただ2人の人間が時間差で通学路を歩行しているだけであり、そこには何の犯罪性もないはずだ、ということでぼくは毎回自分の尾行行為を正当化している。

 腕時計を見ると8時10分、そろそろSさんが自宅から出てくる頃だ。ぼくはいつもより歩くスピードを緩めて、Sさんの自宅をかなり後方から確認する。

 前方に目をやるとちょうどSさんが家から出てくるところだった。

 よし、ようやくこのキャップの出番だ。ぼくは博士の言葉を思い出す。「このキャップを被り、頭の中である人間のことを強く思い浮かべると、短い時間だけではあるがその人間の脳内を覗くことが出来る」―――――。ぼくはSさんの姿を前方に見ながら、その顔、身体の全容を出来る限り鮮明に脳内に思い浮かべた。Sさんは学校に向かう途中、どんなことを考えているのだろうか。他の有象無象と同じように、ああ学校に行きたくない、すぐに帰ってテレビを見たいなどと思っているのか、それとも――。ぼくは自分が知らないSさんの秘密を知ることが出来る可能性に少しばかり胸が熱くなった。歩調の速いSさんは、ぼくがゆっくりと歩きながらSさんのことを考えている間にもどんどん遠ざかっていく。ぼくは脳に全意識を集中した。すると、少しばかりして突然頭に強い衝撃が走った。誰かに頬を平手打ちされたような痛みを感じる。それと共に、視界がぼんやり霞み、全く別のぼんやりした薄緑色の陰影が見えてきた。もしやこれがSさんの脳内なのだろうか――。しばらくすると、ぼんやりとした陰影の輪郭が徐々にくっきりと見えてきた。これは、どうやらテーブルの上に置かれた皿に緑色と茶色の食べ物が盛り付けられている映像のようだ。次第に映像が鮮明になっていく。そして、それが何かはっきりわかった瞬間、ぼくは拍子抜けした。これはただのピーマンの肉詰めだ。それ以上でもそれ以下でもない。Sさんは登校中にピーマンの肉詰めのことを考えているらしかった。よりにもよって、ぼくの嫌いな食べ物のことを考えているとは。妙な因果関係にぼくは苦笑した。それから3分間ほど、ぼくの眼前にはずっとピーマンの肉詰めが音もなくただ鎮座していた。Sさんは朝ご飯を食べてこなかったから空腹なのだろうか。それとも無類のピーマン好きなのだろうか。もうしばらく待ってみても、ぼくの脳内には一向にピーマンの肉詰めの映像が去来するのみだった。ほどなくして、また頭に強い痛みと衝撃が走った。ぼくは気付くと、地面にしゃがみこんで目をつぶっていた。「大丈夫かい?」目を開けると、通りすがりだと思われる老婆が心配そうにぼくの顔を覗き込んでいる。「あ、大丈夫です、ちょっとお腹痛かっただけでもう治ったんで」ぼくはそう言うとキャップを深く被り直し、そそくさと歩き出した。後ろから「ボク、無理するこたないよ」と老婆の声が聞こえたので、振り返って笑顔で会釈した。まいったものだ。ぼくは他人の脳内を覗き見るために無意識にしゃがみこみ、見知らぬ老婆に要らぬ心配をかけてしまったらしい。Sさんの姿はとっくに見えなくなっていた。ぼくは肩透かしを喰らったような気持ちで、学校へ向かった。学校内ではキャップを被る訳にはいかないし、Sさんは手芸部の活動がありぼくは帰宅部なのでこのキャップをSさんに使えるのは朝の登校時間中しかない。ぼくは人目につかない道に入り込み、キャップを脱ぐと、元のように校門へ向かった。明日はきっと、もっとSさんの感情を掴み取ることが出来るような心象風景を拝見することが出来るだろう。

 

 しかし、そのようなぼくの予想は大きく外れてしまった。次の日の朝も、同じように登校し、途中でキャップを被り、Sさんを観測すると共に彼女の姿を脳内に強く思い浮かべた。すると、またもや緑と茶色のぼんやりとした陰影がぼくの視界に浮かんできた。まさか、またピーマンの肉詰めのことを考えているのだろうか?朝にピーマンのことを考えながら登校するのが彼女のルーティーンなのだろうか。だとしたらしょうがないが、流石に2日連続というのは心がもどかしい。陰影がくっきりとしてくると、今度はそれがピーマンの肉詰めではなく青椒肉絲であることが判明した。なかなかどうして、ピーマンは彼女を虜にして離さないようだ。ぼくは落胆し、キャップを脱いだ。今回は慣れてきたのか、地面にしゃがみこんではおらず、直立不動の状態で道に突っ立っていたらしかった。幸い、周囲に人はいなかった。ぼくはとぼとぼと学校へ向かった。

 

 その次の朝。今日でもうこのキャップを博士に返さなければならない。今度こそSさんがピーマンのこと以外に何を考えているのかが知りたかった。昨日と一昨日のように、ぼくは深々とキャップを被る。Sさんの姿を登校中に確認すると、彼女の容姿を強く念じる。次第に視界がぼやけ、別の情景が浮かんでくる。徐々に映像が鮮明さを帯びてくる。これは、なんだ――。今までより色合いの強い茶色と、緑、赤、紫――。やはりまたピーマンに関連した何かの料理なのだろうか。少ししてぼくは、ある異変に気が付いた。カレーの匂いがする。しばらくして輪郭がくっきりしてくると、それがどうやらピーマンの分量がやや多めのキーマカレーであるらしいことがわかった。Sさんは3日連続でピーマンに関連した料理のことを考えていたのだ。なんだかぼくは少し怖くなってしまった。いくら偶然でも3日連続でぼくが嫌いなピーマンのことを考えるだろうか。博士がこのキャップに何か仕組んだのではないだろうか。それともSさんはすべてを知っていて、わざとピーマンのことを考えるようにしていたのだろうか。ぼくはだんだん疑心暗鬼になり、結局考えるのが面倒臭くなってしまった。平常時の意識を取り戻すと、ぼくはキャップをバッグの中にしまい、学校へ向かった。朝ご飯を食べた後だったにも関わらず、ついさっき嗅いだキーマカレーの匂いによってぼくは少しお腹が空いてきてしまっていた。今ならピーマンが入ったキーマカレーを食べることが出来るかもしれない。そしてそれが、Sさんとぼくを繋げる何かのキーになり得るかもしれない。そんな淡い期待も儚く、いつも通りの一日が過ぎ、ぼくは学校からの帰りにキャップを返却するため博士の研究所へ寄った。

 

 研究所に着くと、その廃墟のような建造物に開いた穴から博士がボロボロの木製椅子に座ってうたた寝をしているのが見えた。

 「博士、博士」

ぼくは博士のところまで近寄り、博士の身体をさすった。博士は熟睡しているのか、なかなか目を覚まさない。

「博士、このキャップを返すよ。ほとんど刺激的なものは得られなかったけどさ」

 そう言いながらぼくはあることを思いついた。そうだ、せっかくだし最後に博士の頭の中を覗いてみよう。何か変な夢を見ているのかもしれない。面白そうだ。流石にピーマンの夢を見ている可能性は薄いだろう。ぼくはバッグからキャップを取り出した。そしてそれを深く被ると、目の前にいる博士の姿を強く念じた。すると突然、ここ3日間でSさんに対してやった時とは比べ物にならないぐらいの衝撃が全身に駆け巡った。と同時に、激しい痛みが全身を襲う。ぼくはたまらず苦痛に顔をゆがめた。痛い。全身を巨漢に全力で殴打されているようだ。ぼくはあまりの痛みに徐々に意識を失っていき、次第に底の無い深い闇の中へと落ちていった。

 

 

つづく