忍耐と厭世

 今日はまだ8月2日ぐらいだろうと思ってカレンダーの日付を確認すると8月4日だった。光陰矢の如し。このまま時間の濁流に呑み込まれて一生を終えていくのかと思うと本当に怖い。あまりにも時間が経つのが早すぎて実は自分は時間を跳躍することが出来る能力者なんじゃないかと思えてくる。

 

 この間ニュースピックスか何かの意識高い系アプリを見ていたら「余命わずかの人に聞いた『生きている間にやっておきたかったこと』」というような見出しの記事があった。余命わずかの人間に「死ぬ前にやりたかったことはないか」という質問をした結果(酷なことをするものだ)、大半の人が「もっと自分の気持ちに正直に生きれば良かった」と回答したらしい。素直に自分のやりたいことをやれば良かった、我慢しなければ良かった…。人生は一回しかないのに、その一回を何故自分のやりたいことに使えなかったのか…悔恨の涙を流しながらその生涯に幕を閉じる。想像しただけで無念である。人生の代名詞は不条理なのか。そんな現実を認めていいのだろうか。我々人類から希望という名の灯を奪取しようとするのは一体誰なんだ。頼むから生に意義を与えてくれ。嗚呼もう無理だ。なんだか厭世的な感情が強まりすぎて自分でも何を書いているのかわからなくなってしまった。

 しかし、Youtuber等のフリーダム系職業が出現してきた時代とはいえ未だ全員が全員好きなことをして生きていける社会ではない。死ぬ直前に「もっと自分に正直に生きれば良かった」という感情が胸の内に去来するのは当然といえば当然だろう。

 では、我々は本当に好きなことを我慢し、自分のやりたくもない仕事に従事して生き続けなければならないという運命を享受することを強いられなければならないのだろうか。いや、我々と称するのは誤謬になるかもしれない。この問題に関しても全員が全員そうというわけではないのだ。周りを見渡してみれば人生を楽しそうに謳歌している人間もいれば、今にも深遠なる闇の奥底に沈没しそうな人間もいる。そうした周囲を鑑みると、環境、経済、出自、貧富、格差などのワードが頭の中に次々と浮かんでくる。そうして頭の中で勝手に人間を分類したピラミッドが形成される。自分はこのピラミッドの下層に位置する人間なんだと勝手に悲観し、人間をピラミッド式に分類した神を勝手に呪う。そういう人間は大概が諦観の境地に陥るか、不条理な社会に対しての復讐心を抱くようになる。幼少期の頃、自分より下の弟や妹だけ親に可愛がられ、親から十分な寵愛を与えられなかった兄や姉が親に対して抱くような不快感、復讐心がそこにはあるのだ。その復讐心の正体はきっと、自分が好きなように生きるのを我慢し続けることによって膨張していった不満だ。抑圧された精神はそのまま押し潰されはしない。抑圧された反動でより肥大化する。そして膨張を続け、いずれは爆発してしまうのだ。この負の感情が爆発した時、人は陰惨な犯罪行為に走ってしまうのかもしれない。

 大学で犯罪心理学を履修したわけでもないのに適当な見解を述べてしまったが、昨今の暗いニュースの背景には少なからず前述したような人間の深層心理が関与している気がしてならない。我々はやる瀬のない怒りの根を断絶しなければいけないのだ。そしてそのためにまず、労わるべき人間をしっかり労わらなくてはいけないのだ。

 

 

 

 

 最近疲れすぎてYoutube久石譲の音楽を聴くのがルーティーンになってしまった。もうそうなったら人生終盤の証拠である。葬式では『Summer』を流してほしい。夏に生まれたからには夏に死に、夏の曲で天界へ旅立ちたい。地獄みたいな現世を生きた人間は楽園に迎え入れられるって信じてるから。