死相と異性

 4人以上の人数で開かれるあらゆる種類の会合が苦手だ。人が多くいる場では自然と後手に回ってしまう。それは単純にコミュニケーション能力の欠如に起因しているのかもしれないが、自身の根底に「人類全員と分かり合うことは絶対に不可能なのだ」という壮大な諦観があるからというのも否めない。この間もある程度の人数が一堂に会する集まりに顔を出したのだが、やはり精神的に窮屈で仕方がなかった。

 

 久方ぶりに会った知己と居酒屋で他愛もない話をする。たったそれだけのことだが、何故か大人数の前で自分のことを話すのは躊躇してしまう。基本的に自分の身の上話で面白いことなんかひとつもないという自覚があるので、何かを話そうという意欲がほとんど湧き起らないのだ。逆に他人の身の上話に興味を持ち、熱心に耳を傾けるタイプの人間かというとそんなことはなく、他人の話も上の空で聞いていることが多い。自分にも他人にも興味がない、無機質極まりない人間なのである。そんな生きながらにして死んでいるような状態だから、当然飲み会の場でも死んだ目をしており、生存確認をされることがよくある。飲み会の誘いを受けた時に、「生きている意味がわからなくなっているので飲み会には行けません、ごめんなさい。私は今、シンガポールにいます」と断っておくべきなのだろう。

 僕がそのような場に対して辟易する理由はそれだけではない。そういった場に行くと、必ずといっていいほど異性の話になる。誰かに彼女がいると発覚すると、当然その彼女の写真を開示させようとする流れになる。偽善的に思われるかもしれないが、僕は知人の彼女を視覚的に確認しようとする行為が俗っぽくてあまり好きではない。無論、当人が自身の彼女を見せたがっているのなら本人の自尊心を満たしてやるために見てやってもいいだろう。だが、本人があまり見せたくないと言っているのに彼女の容姿を確認したがるのは個人的に無粋だと言わざるを得ない。その異性がどんな性格で、どんな人間なのかということは実際に相対してみないとわからないし、写真に写った顔というフィルターを通して感想を述べるのはなんだか当人に対してもその彼女に対しても失礼な気がするのだ。

 男というのは現金で、異性の人間がどんな性格であるかというよりもその異性が世間的にどのようなポジションに位置しているかを気にする傾向があるとどこかで聞いた。だから世間から羨望の眼差しを向けられるような美人を手中にしていることがある種のステータスとして成立しているような節がある。そのように中身よりも体面を重視しているような卑しい部分が見え隠れするからこそ、僕は知人の彼女の写真を見ようとする行為に抵抗を感じてしまうのかもしれない。

 そもそも本音を言えば、他人の彼女など自身に関係ないのだからどうでもいいというのが正直な感想だ。しかし、それではあまりに味気無いし、「申し訳ないけど君の恋愛事情には全く興味がありません」と断る訳にもいかない。思えば、彼女の写真に興味を持つ素振りを示すというのは相手の自尊心を満たすためには有効なのかもしれないし、そういった意図で写真を見ようとする行為に及んでいる人間もいるのかもしれない。ただ、僕はそれならその彼女がどういった人間なのかやどこに惹かれたのかを聞く方が相手とその彼女の存在を素直に認められるような気がするのだ。

 

 結局どうすることが正解なのかはわからない。知人の彼女の写真を見ようとするという些末な行為にも心理的な抵抗を感じてしまう性分は、恐らくまともに生きるのには向いていないのだろう。

 春から社会人として生きなければならないのだが、こんな人間が社会人になっていいのだろうかという不安が波のように押し寄せ募ってくる。現状、はっきりわかっていることは何か重要な転機が必要だということだ。

 

 とりあえず、シンガポールにでも行ってみようか。そうすれば、同窓会にも行かなくて済む。