瑕疵と独白

 

 『超回復』をご存じだろうか。最近では筋力トレーニングが流行の一端だから、既に存じ上げている読者諸賢も多いかもしれない。激しい筋トレなどをすると、筋肉細胞が一旦破壊される。その後2~3日の休息を取ることによって筋肉細胞は回復していき、以前よりも太く強い筋肉が再生されていく。この現象を『超回復』と呼ぶらしい。

 最近ジムに行って筋トレばかりしている。就職を目前に控え、既に卒業要件単位を取得し終わっている身としては、筋トレとアルバイトぐらいしか手軽に向き合えるものがないのだ。いささか退屈にも感じるが。大学生特有のモラトリアム期間を最も自由に謳歌出来るこの時期、筋トレとアルバイトで日々の余白を塗りつぶしていくのは何だか勿体無いのではないかという躊躇いも無くはない。しかし、かと言ってどこかへ旅行に行くにしても計画を立てる労力が惜しい。去年の暮れに九州へ一人旅に行ってみたことはあるのだが(需要が無いにも関わらずまた別の機会に詳細な記事を書くつもりだが)、自分一人で宿泊施設や交通手段の確保をするのはそれなりに骨が折れた。今後に学内で所属している何かしらの団体の卒業旅行に行くことになるかもしれないが、それもあまり乗り気ではない。要するに出不精なのだ。可能な限り自宅にこもってずっと本を読んでいるかアニメを見ていたいのが正直な感想だ。一体僕はどうすればいいのだろう。誰か代わりに人生の指針を立ててくれると有難い

 

 ジムに行くのは週2~3日。2日か3日の間隔を空けて通っている。前述した『超回復』を促進するためだ。もともと僕は痩身で、脂肪は無いが筋肉もないという体質だったので必要最低限の筋肉をつけるためにジムに通い始めた。本格的に筋トレをするようになったのは大学4年生の夏頃からだ。地元に安く使える設備のジムがあって幸いだった。ジムに通い始めてからは、歴然と目に見えるように筋肉が成長していったかというと決してそんなことは無く、通い始めてからおよそ半年ほど経過した今でもムキムキゴリゴリのマッチョになったという実感は無い。それでも、一応申し訳程度に視認出来るぐらいの胸筋と腹筋がついてきたのは事実だ。心なしか身体全体が強化された気もする。

 そういった微細な変化を実感した僕は、筋トレがいずれは結果的に未来への投資になっていくのではないかという漠然とした目算を立てて、あまり気乗りしない時でも極力ジムに足を運ぶようになった。

 

 僕が筋トレを続けるのには他にも理由がある。前述したように貧弱な自身の肉体改造という目的も重要な原動力だが、何かを遂行した実感を視認的に得るため、というのも立派な動機の内に数えられると思っている。筋トレは、やれば必ずそれなりには筋肉がついてくる。あまり筋肉がつきにくい体質の僕でもそう感じるのだから、筋肉がつきやすい体質の人などは如実にその実感が得られることだろう。何故そんな実感を得ることが僕にとって重要なのか。それは僕が大学生の今まで、中学高校大学とぶっ続けで運動部に所属してきた背景に起因する。僕は元来運動神経が良い方ではない。むしろ悪い。体育の授業でサッカーなどをやる時もゴール前で微動だにしない彫像のように突っ立っているのが関の山だった。本来なら僕は運動部ではなく文化部に所属するべき人間のはずだ。しかしそうは問屋が卸さない。僕は不運にも、「学生は身体を動かすべきだ、運動部に入って汗を流すべきだ」という強大な固定的観念を有した親を持っていた(このあたりの事情は思うところが多々あるのでまた別の記事にしようと思う)。僕は高校入学後、親に運動部に入る意志があまりない旨を伝えると、激しく叱咤され、明日にでもどこかの運動部に仮入部させてもらえと言われた。それでも僕はあまり気乗りせず、何故自分の人生に親の思惑が介入してくるのだ高校生なりの私憤を抱きながらだんまりを決め込んでいると、気付いたら家を追い出されそうになっていた。文字通り玄関の外に放り出されて鍵をかけられたのだ。いや、流石にそこまでの処置は施されなかったかもしれない。僕の被害妄想で多少は記憶が脚色されているかもしれないが、当時は親のあまりの剣幕に混乱していたため正常に頭が働かなくなっていたのだろう。おかげで記憶は曖昧だ。ただ親が僕に何らかの運動部に入部させようとしてきたのだけは確実に記憶している。結局僕はとある運動部に入部した(プライバシーの権利により具体的な言明は控えさせて頂く)。中学でそれなりにメジャーな種類の球技部(プライバシーの権利により具体的な言明は控えさせて頂く)に所属していた僕は、中学卒業後にやっと運動部の束縛から解放されると安堵していたのに、親の謀略により何故か6年間も運動部に所属することになってしまった。僕に自分の意志を貫き通す覚悟があれば結果は違ったのだろうか。それかもしくは正当性を帯びた反抗をしっかりしておけば…いや、当時その場において正当性という言葉の定義は残念ながら不可変なものではなかった。どうも僕には、正当性というやつが勝手に親の頭の中で規定されているだけのように思えた。何を言っても無駄な気がしたのだ。まあここでいくら愚痴を言ったって仕方ない。自分に非が無いと断言出来ないのも事実だ。本題に戻ろう。とにかく僕は不本意ながら運動部に入部した。そして、ある事実を再確認した。やはり僕はスポーツが不得手だということ。何をやっても一向に上達しない。何をやっても人並み以下のことしか出来ない。懇切丁寧にやり方を教えられても、絶望的な運動神経の悪さによりその通りに出来ないことが多かった。周囲の部員は出来るのに、自分だけ出来ないことがあるという状況が常態化していた。そういう状況に直面する度に、やはり僕は運動部ではなく文化部側の人間なのだという思いと、何故僕はろくに運動も出来ない癖に運動部に所属しているんだろうという自己嫌悪、劣等感に苛まれていった。恐らく殆どの運動部の目的は、美容と健康を維持することではない。チーム、或いは個人で試合を組み、相手のチーム或いは個人に勝利することを目的としている。これは少し過剰な表現かもしれないが、運動部には勝利するためなら何でもするという文化が根付いている。試合に負けたらコーチや監督に練習量が足りないと叱責される。練習をサボりがちな部員は自然と周囲のチームメイトから疎まれる。全ては勝利するためという前提に基づいて、運動部は機能している。組織として結集し、部員が一丸となって勝利を収めることが美徳だという風潮が、僕には確かに感じられた。そのような運動部において、自分の実力の低さを自覚している僕は少し息苦しさを感じていた。息苦しさというか、自分がその部活に所属しているという罪悪感だ。僕は明らかに足を引っ張るような存在だったと思う。だから自分は即刻その部活から退去した方が『勝利』という全体的な利益に繋がるのではないだろうかという思いが常々あった。これはチームで試合を行う競技に限らないことだ。個人競技であったとしても、当然技量の差で個人の優劣が決定される。上手な人間は上の方へ、下手な人間は下の方へ。運動部は勝利の為に活動するのだとしたら、部活全体としては当たり前だが上手な人間の方が価値がある。残酷な話だが下の人間は試合などにおいて日の目を浴びることはほぼない。無論、部員が全員出場出来る大会などであれば活躍する機会も設けられるだろう。しかし、部活というのは組織としてより大きな躍進を希求するものだ。コーチや監督は上手な人間、成長性の期待出来る人間に指導を注力する。残酷ながらそれが現実というものだ。僕は運動部に所属してきてから今まで、そのようなことを延々と考えてきた。だからといって完全に諦観してサボっていたかというとそうではなく、最低限の努力はしてきたつもりだ。いや、そういった残酷な現実の不条理さに嫌気がさしてやけくそになり人一倍練習に励んだこともあったにはあった。しかし、それでもやはり僕はスポーツに向いていなかった。厳密には、どれだけ努力を重ねても「自分はスポーツに向いていないのだな」という感想を得るところにまでしか至らなかった、と記すのが正しいだろうか。今となっては全て苦い記憶だ。未だに「あの日々は今となってはもう良い経験になったさ、フッ…」と自分の中で清算することすら出来ていない。あの複雑な心情にどう踏ん切りをつけていいのか未だにわからない。

 そんな調子で大学生になった僕は、今度こそ適当なサークルに入って適当に漫然とした大学生活を送るぞと意気込んでいた。しかしそこで介入するのはやはりまた他者の意志だ。僕はもう自堕落で怠惰な道を進むには、面倒な障害物を除去しなければならないということを経験則から知っていた。ここで言う面倒な障害物というのが何を指すのかは前述した経緯を鑑みれば明らかだろう。結局僕は面倒な障害物を除去する作業を放擲し、運動部に入部するという迂遠なルートを進んだ。その選択は自分の本心からは遠ざかるが、適当なサークルに入って漫然と過ごすルートよりははるかにお膳立てがされていたので、表面上は滞りなく進んだのだ。僕は内心で全力の後退を所望していたが、周囲から見れば自分の意志で運動部という組織に所属し、前進しているかのように映っただろう。そしてやはり、案の定、精神的に挫折した。努力と才能の相克問題だとか、そういう問題以前に何のために自分がこんなことをやっているのかわからなくなってしまった。いつからか、僕は真剣にものごとを思考するのをやめるようになってしまった。何も考えたくなかった。しかし薄々その精神的な荒廃をもたらした原因に見当がついてもいた。要は能動か受動かの問題だ。周囲は僕のように受動的に思考停止して生きている人間ばかりではない。大多数が能動的に行動しているだろう。そんな能動性を前にすれば、受動態の結果として運動をしている僕の存在価値は部にとって不要と言っても過言ではないだろう。こうした心境から、足早に部から籍を抜きたいという衝動に幾度となく駆られた。中学から大学までずっとその衝動に駆られていた。それでも籍を置き続けたのは、自分をこんな状況へ追い込んだ存在への怒りによる無駄な反抗心と、申し訳程度の義侠心だった。さらに、そんなこと気にしなければ済む話なのだろうが、部活を途中退部することは敗北を意味するような風潮が部内にはあった。ただ、それは部活という内輪の話であって、もう辞退してしまった外部の人間からするとそういった負の烙印を押されることは意にも介さない話かもしれない。しかし僕はそう思われるのだけは嫌だった。それに今辛いこの場面で逃げ出すと、この先の人生でさらに辛い場面があった時にすぐに逃げ出すような人間になってしまうのではないかという気がした。なんだかこうして書いてみると、自分が偉く我儘な人間な気がしてくる。苦痛から逃れる為に籍を抜きたいが、なけなしの名誉の為に苦痛を甘んじて籍を置き続ける。我儘というよりただのマゾヒストなのかもしれない。そんな訳で精神的な苦悶を抱きながらも日々は過ぎゆき(雑な省略)、満を持して僕は引退した。

 そうして冒頭に書いたような、起床筋トレアルバイト就寝という平穏無事な日々に至っている訳である。前置きが異常なほど冗長になってしまったが(前置きとは何だろうか)、そもそも何故こんな話をしたかというと、筋トレは視覚的に達成感を得られるという話に説得性を持たせるためだった。前述したように僕は長年運動部に所属してきて一回も視覚的に、身を以て自身の成長を実感したことはなかった。得たものといえば劣等感、自己嫌悪の感情、ほんのわずかな忍耐力ぐらいなものだ。しかし筋トレは鏡を見ればはっきり効果がわかる。目に見えて筋肉が発達しているのがわかる。これは僕にとってちょっとした感動だった。なんだか啓発セミナーめいた文章になってきてしまっているが、筋トレというのはそれほどまでに如実に効果を実感することが出来る。そして筋トレは特異な才能を必要としない。正しいフォームでさえやれば運動神経が良かろうが悪かろうが誰でも筋肉を強化出来る。時間的なコストもそれほどかからない。それどころか1日行ったら超回復のために必然的に2~3日の休息を要するので、飽きにくい(個人差はあるだろうが)。僕が部活に所属していた時は、練習量至上主義のような感じで、休養は悪のような風潮があった。最近ブラック企業の超過勤務などが問題視されているが、部活においても大体同じ事が起きているのではないかと僕は思う。何しろ、運動部は勝利の為に活動するという目的がある。人より多く練習し、研鑽を積むことは勝利という目的から見れば当然美徳として捉えられる。人より多く汗を流すことが悪いことだとまで言う気は流石に無い。しかし、だからといって人に汗より重い涙を流させることはかえって逆効果だ。む、申し訳ない。表現が少々詩的過ぎた。まあとにかく、程良い休養は効率的であるということだ。だから僕は超回復という言葉が好きだ。そして超回復を重要視しなければ効果が得られない筋トレも好きだ。筋トレはしなくてもマイナスにはならないが、すれば必ずプラスにはなるだろう。読書諸賢も一回筋トレの世界に足を踏み入れてみてはどうだろうか(いよいよ本格的に啓発セミナーめいてきた)。筋トレの懸念要素を強いて挙げればジムの費用だとかプロテイン代だとかの金銭面についてのことだが、まあそこは家から最短で最安の施設を見つけて日々の食事を見つめなおしてくれとしか言いようがない。僕の場合はありえないぐらい安く使えるジムがたまたま近所にあり、クーポン等を駆使してありえないぐらい安くプロテインを買っているので金銭的には差し支えないが。正直言って金銭面などは僕にとって問題ではないのだ(僕は別に富裕層でも何でもないが)。大事なのは精神面だ。僕は自分が筋トレを始めようと思い立ちジムに通い始めてから一回も筋トレを中断したい、辞めたいなどと思ったことは無い。辞めてしまえばそれまでの不断の努力が水の泡になる、という思いもありはしたが、僕が頑なに筋トレを続けているのはやはりその充実感が視覚的に実感出来るから、という理由が大きい。

 中学高校大学と、運動部に所属し怪我をすることも多少はあった。しかし一番苦痛を感じていたのは肉体的な部分ではなく、他でもない精神だった。今ではもう、そのような精神的苦痛を耐え忍びながら運動をすることはない。心なしかジムに向かう足取りは、部活へ向かう時の足取りよりも何倍も軽く感じる。僕はようやく精神的苦痛から解放されたのだと、開放的な気分に身を浸しながら筋トレに勤しみたいところなのだが、ただ一つ言っておきたいことがある。

 

 

 

 筋肉痛は普通に痛い。