隠者の屁理屈

 生きていると、嫌でも避けて通れない事態に直面することがある。それは例えば親族の突然の死だったり、長年連れ添った恋人との永遠の別れだったりする。それらを受け入れ乗り越えることによって人間は成長していくのだ、などと偉そうに講釈を垂れるつもりはないが、嫌でも逃げずにものごとと向き合うことが肝要であるのはまず間違いないだろうと思われる。

 

 だがしかし。逃避を悪と決めつけ、その前提のもとに行動するとどうしても心労が蓄積するのもまた事実なり。時には逃げたくてどうしようもない時だってある。

 

 大学4年生の冬から春にかけて。この時期、俺の周囲には何かとむやみやたらに生き急ぐ人間が数知れず誕生していた。やれ卒業旅行だの、やれ飲み会だの、想い出作り計画に余念が無い。就職したら忙しくなって二度と会えなくなるのだから今のうちに会って酒を酌み交わし夜通し語り明かそうではないか、というくだらない魂胆を胸に秘め、意気揚々と知己を誘い出すのである。全く馬鹿馬鹿しいことこの上ない。大体、真の想い出などというものは計画が奏功して完成するものではない。偶然、そう、偶発的に発生した記憶だけが真実のメモリーであり、あらかじめ計画して行ったことはただ計画の遂行に過ぎないのである。あらかじめ予定された行動、そんなもののどこに懐かしさ、郷愁を見出せるだろうか。想い出は作るものではない。気付けば後から自身の記憶の内に出来ていたものこそ、本当の想い出というやつなのである。だから俺は想い出作りのために計画された旅行など断固反対だ。そもそも就職したら二度と会えなくなるという前提のもとに話が進められるのがおかしい。確かに地方などに飛ばされてなかなか知己同士で集う機会が少なくなるのも事実だろう。だが、だからといってその直前に慌てて集合するというのは奇妙な話だと俺は思う。もうなかなか会う機会が無いのだから会っておこうという一連の流れの中には、ある種の義務感のようなものが働いてはいないだろうか。俺は、本当に親しい人間同士では、そういうような思考は発現しないと思うのだ。まず第一に、もうなかなか会う機会が無いのだから最後にいっぺん会っておこう、という魂胆は、その人間と今までにそれほど会っていなかったということを示唆している。無論例外もあるだろう。しかし今の時代、インターネットで常時連絡が取れる筈だ。だからそのような案が発されるのは、今までそれほど会ってこなかったし、インターネット、SNSで近況報告をするほどの仲でもなかったというケースが多いように見受けられる。まあこの理論には多少俺の個人的な所感が入り込んでいるが。ともかく、そういった「就職前に一回集まらんかね、どうだい?」的な誘いには、多分にして義務感が含まれており、本当に親しい人間同士の間ではあまり起こり得ない事象だと俺は考えるのだ。本当に親しいなら頻繁に会っていたり、SNSで連絡を取り合ったりするだろうし、逆にお互い気の向いた時以外には連絡を取らないという放置的な形もあるかもしれない。だから、わざわざ集まる機会をセッティングするということは、人と人との縁に区切りをつけるための儀式であるようにしか、俺には見えないのである。俺はそんなお膳立てされた会合に出席なぞしたくない。本当に親しい人間とは、いくらそいつが忙しくても縁が続いていくのだろうし、あまり親しくない人間とは、いくらそいつが暇であったとしても会う機会は自然と少なくなるだろう。俺には大学4年生が卒業直前にやりがちな飲み会の誘いや卒業旅行の計画などが、そういった既成の関係性を無理矢理矯正しようとする無駄な悪あがきにしか、見えないのである。我ながら屁理屈も甚だしいが、何故俺がそんなことを宣っているかというと、大して親しくもなかった連中から現に今そういった誘いを受けているからである。その状況こそが、この歪んだ思考回路を生み出してしまったのだ。

 とどのつまり、俺は逃げたくて仕方がない。嫌でも向き合わなければならないことがあるのはわかる。その反面、逃げるという手段が実行可能であるのもわかってはいる。今すぐ東京湾の汚い水面にスマートフォンを投げつけてやるのも物理的に不可能ではない。まあそれは流石に大袈裟だが。なんだか考えるのも面倒になってきた。今の心の状態を色で表すなら多分東京湾の水面より汚濁したブルーになるかもしれない。大体、この手の悩みで何故悶々とするかというと、大体行動を起こした後に後悔するからだ。逃げずに人と向き合わなきゃ駄目だ、と奮起した結果、悔恨の情に苦しめられることになる。意を決して引いたくじが吉と出るか凶と出るか。今まで、俺が引いてきたくじ引き箱の中には凶しか入っていなかったんじゃないだろうか。大吉が欲しいとは言わない。ただ、せめて、逃げてもいい理由が書いてあるくじを、紛れ込ませておいてさえくれればいい。