平成

 

 今までの人生の中でインターネットに触れる回数はそれなりに多かったのにも関わらず、決してインターネットの使い方が上手いとは言えない類の人間になってしまった。

 

 僕は生来的に内向型の人間だから、物心ついた時にはもうインターネットをもうひとつの自分の世界として認識してしまっていた(中二病みたいな言い回しだが当時実際に中学二年生ぐらいだったので許してほしい)。周囲に上手く馴染めず、陰鬱な日々を悶々と送り、退廃的になった気持ちを一時的に落ち着けてくれたのがインターネットだった。インターネット上では現実で言えないようなことを吐き出せるし、自分の発信した何かを受け取るのは基本的に自分の知らない人間だったから、そこにある程度の気楽さがあった。僕は現実では必要以上に周りの目を気にしていて、とても臆病な腰抜け野郎だったからインターネットは自分にとってはオアシスのような存在だった。顔見知りでも何でもない人間にどう思われようが所詮は赤の他人なのだから関係無い、という考え方が根底にあったから適当なことを気の赴くままに発することが出来たし、自分の素直な感情を吐露することも出来た。しかも顔も見えないし声もわからないという匿名的な環境は、抑圧された本音を解放してやるのにちょうどいい場所だ。今思い返して、あの頃もしまだインターネットが発達していなかったら自分はどういう精神状態になっていたのだろうと怖くなる時がある。良くも悪くも、インターネットを媒介した世界は僕にとってはささやかな精神安定剤のようなものだった。

 

 しかし、真っ当に生きていれば小学生ぐらいの時にわかることだが、現実の生身の人間と生身で交流を図るのは大事なことだ。時代が進むにつれてインターネットが発達し、コミュニケーションが簡易化されていっているにしても、やはり身近な他人とface-to-faceで交流を図るのは人生において必要なことなのだ。当たり前すぎることを書いている気がするが、インターネットに没頭していた頃の僕は「そんな綺麗事で太刀打ち出来るほど甘い人生じゃねーんだよ、周りに嫌な人間が多くて、うまくいかないことが多くて、人生が辛すぎるって塞ぎ込んでる奴がインターネットに逃げ込むのは当然の理屈だろ、早く助けてください」というような心境で自暴自棄になっていたから、現実で積極的に他人とコミュニケーションを図ろうとかいう気は毛頭起きなかった。

 インターネットはそんな風に捻くれてしまった奴の温床だ。現実逃避をすればするほど内向的な性格とか臆病さとか自信の無さが増長してしまっていたような気がする。ネガティブな要素が多いばかりに現実で空回りし、ネットで現実逃避をしてネガティブな感情が膨れ上がり、また現実で失敗する。負のスパイラルだ。そろそろこの負の連鎖を断ち切らなければならない。

 

  自分が死ぬ時のことを考える時がある。もし死期を悟ることが出来たら、何を思い出しながら死んでいくんだろうか。その時に記憶の奥底を探って拙い思い出を無理矢理引っ張り出さないといけないような薄い人生を歩んではいやしないだろうか。重厚な人生を送るためには、生涯の中でインターネット機器と向き合っている時間の比率を少なくしなければいけないような気がした。一回の人生をどう使うかは完全に個人の自由なので、普遍的にインターネットは敬遠しなければならないものだというわけではない。インターネットは便利なものだ。ただ、僕は今までの自分のインターネットの使い方が悪かったから、その代償として無味乾燥な人生を送らなければならないのではないかという危惧を抱いたのだ。今までのような下手糞なインターネットの使い方はしたくない。このブログでこんな些末な意志表明を書くことがインターネットの正しい使い方なのかはわからないが。