負荷の軽減

 「分人」という言葉をご存じだろうか。あまり耳にしたことがないという人もいるだろう。かくいう僕もこの言葉を知ったのは最近のことである。

 分人とは、小説家の平野啓一郎氏の著書『自分とは何か~個人から分人へ~』で提唱されている概念のことだ。この本を読めばこの概念がどういうものなのかが詳細に理解出来ると思うので興味のある諸賢は一度読んで頂きたいが、僕なりに書かれていた内容を要約すると「人は自身の内に幾つかの人格を抱えており、"個人”というひとつの肉体の内に、更に分割化された人格が存在する。それを"分人"という単位で呼ぶことが出来るのではないか」ということである(多分)。集団は個人の集合であるように、個人はこの分人の集合によって形成されているという訳だ。この稚拙な要約ではいささか分かりにくいと思われるので、具体的な例を挙げて説明していこう。

 身近な例で言えば、自分が同年代の友人と接する時や親と接する時、学校の教師と接する時ではそれぞれ態度が分別化される。普段友人や親と話す際にあまり敬語を使う機会は無いだろう。ごく稀にそういったケースも存在するかもしれないが、あくまで友人と自分との関係、親と自分との関係性を考慮した上で会話の基調となる言語は自然と設定される。教師と会話する際は基本的に敬語を使用するだろう。つまり、同じ一人の人間でも、接する相手によって態度が変わる。言葉の使い方も変わってくる。平野氏はこういった現象によって生じる、一人の人間の中に複数存在する人格の単位を"分人"と称した。

 何を今更、接する相手によって態度が変わる人間がいるのは昔から周知の事実であるし、わざわざ取り立てて扱う必要があるトピックなのかと思う諸賢もおられるかもしれない。だが、改めて考えてみて欲しい。この分人という概念は、人間関係において気疲れしやすい現代社会に安寧を与える大きなヒントだという気がしてくるのだ。

 

読者諸賢の知り合いの中に、「あいつはインターネットの中だと性格が変わる」と半ば揶揄的に噂されてる人はいないだろうか。諸賢の中にも、そのようなことを言われた経験がある人もいるかもしれない。現実のface-to-faceな空間では温和な性格でも、インターネットの匿名掲示板で何かを発言する時には攻撃的な物言いをする人間、現実では寡黙で真面目に見えるが、インターネットでは同一人物なのかと疑ってしまうほど立て板に水、しかも猥語ばかり飛び出す人間。世の中にはそういった人間が多く存在する。むしろ現実とインターネット空間でほぼ同じような性格の人間の方が少ないだろう。インターネットの匿名的な環境ではそれはもはや必然の結果なのだろうと言える(今は顔や声を露出させてインターネットに接続出来る時代で、匿名性のようなものは薄れかけている気もするが)。そのような人間は、そのことが周囲に露呈すると「あいつは多重人格だ」「裏表のある人間だ」などと後ろ指を指される。やはり現実で感じられた印象がインターネット空間において大きく乖離していると、そのようなネガティブなイメージを抱かれがちである。

 

 しかし、そのように一人の人間が多面的な性格を有しているということは本当にネガティブに捉えられるべきなのだろうか

 

 例えば、仮にあなたが勤めている会社の口うるさい上司と険悪な雰囲気である場合、当然あなたはその上司と接するのが億劫になっているであろう。この時、あなたは、あなたを構成している複数の"分人"のうち、『上司との分人』を選択し、それを外面に顕現させて上司と接している。まあ複数の分人の中から選択するといっても、それは意識的に行われるというより無意識に行われていることだろうが。あなたは恐らく『上司との分人』として生きている間は、とてつもないストレスが蓄積していくことだろう。そして、どうすれば上司と恙なくコミュニケーションを図れるのか考えるのに精神的労力を費やしたり、そんなことを考えるのは面倒だと諦めて週末上司の家に放火しにいくプランを練りに練りまくったりしてしまうかもしれない。『上司との分人』を主体として生きていると、そんな風に気持ちが落ち込んでいってしまう。

 しかしそんな時、あなたが家に帰ると最愛の配偶者、友人、もしくはペッパー君などがあなたを心優しく労ってくれるとしたらどうだろうか。その瞬間、あなたは『配偶者との分人』、『友人との分人』もしくは『ペッパー君との分人』として生きることが出来る。あなたはそうしている間は、確かに『上司との分人』とは別個の人間として、その瞬間を生きているのだ。ここでもしあなたが「本当の自分は一人しかいない。妻や友人と話している間の自分は堂々としているのに、上司と話す時は何故あんなに委縮してしまうのだろう。嗚呼、自分が嫌になってくるなあ」などと悶々としているのなら、それは分人主義的な見地に立つと極めて不毛な悩みである。何故なら、あなたの態度が変わるのは、接している人間が同じではないからである。至極単純なことだ。

 

 日々、多種多様な他人と関わっていく中で「本当の自分はこんなんじゃないのに…」「何故あんなに自分らしくないことを言ってしまったのだろう…」と思うことも少なからずあるだろう。しかし、偽りの自分など存在しない。例え素の自分が出せなかった、と感じたことがあっても、それは紛れもなく自分なのだ。そしてその自分を決定づけているのはその時に接している他者だ。前述したように親と接している時の自分や友人と接している時の自分は無論のこと、駅前のティッシュ配りに「要らないです」と言う自分怪しげなセールスマンに無愛想な対応をしている自分だって、対人関係によって構成されている分人のひとつに過ぎないのであり、どれも本当の自分だ。そういった対人関係によって構成された分人の集合体こそ、自分そのものなのだ。言い換えれば、自分は今まで接してきた他者達によって生成された性格の集積なのだ。

 

 つまり分人という概念は、接する他者が存在しなくては成立しない。その関わる他者が多岐に渡れば渡るほど、自分の中の分人は増えていく。自分の内面に多様な性格が備わっていくことは、果たしてそう悲観的になることなのだろうか。複数の分人を自分の中に持ち、他者の性格によってその分人を使い分けながら生きることは、もう少し肯定的に捉えられても良いのではないか。

 

 昔から僕は他者の内面を断定的に判断する人間があまり好きではなかった。「彼は優柔不断だから~」「あいつはせっかちで~」など、相手のことを完全に把握しているような物言いをする人間だ。それはその人間がその相手と接している範囲内での感想でしかない。人は他者の交流関係を全て把握してはいないだろう。ある人間には、Aという人が無愛想に見えても、別の人間には同じAという人間がありえないほど優しく見えることだってある。普段は厳格な三十代ぐらいの男性が自分の生後間もない娘の前では人が変わったように笑顔で赤ちゃん言葉などを使いはじめる情景を想像してもらえればわかりやすいと思う。人は、他人を理解した気にはなれても、その人のすべて、つまりここでいえば「どんな分人の集合体によってその人が構成されているのか」は理解することが出来ないのだ。他者の内面を断定的に判断してしまう人間は、自分から見えた他者の態度、性格がその他者の全てだと錯覚してしまう節がある。そういう人間は得てして、「唯一無二の"自分"を貫くべし」という信条を持っているものだ。だから僕は、そうした風潮へのアンチテーゼとも汲める平野氏の著書を読んで心が洗われたような気になった。

 

 ここまで冗長に分人について書いてきたが、結局何が言いたいのかというと、「上手く分人のバランスを取って生きれば、心底面倒臭い人間関係もそれなりには楽になるかもな」ということだ。僕自身、大々的に公表は出来ないが付き合いたくない人間というのが周囲に数多く存在する(公表は出来ないと言ってもブログには書くが。多分誰も見ないし)。そうした人達と付き合っていく上で肝要となるのが、その人達と接する時の『分人』の自分の中での比重だ。あまり好きではない人達とは出来れば金輪際関わり合いたくないのだが、人生はそう上手くは出来ていない。否が応でもそういった人達と向き合わなければならない。その時そうした人達との分人の比重が自分の中であまりにも多くを占めていると、息が詰まってしまう。そうした状況を回避するために、自分と親しい人達との分人の割合を意図的に多くするのだ。割合を意図的に多くするとはどういうことか。そもそも、自分が好きな類の人達、嫌いな人達は何によって決定されるのかといったら自分自身に他ならない。その自分自身を構成しているのは、今までの人生で接してきた他者達との分人だ。好き嫌いの基準の背景には、少なからず他者の存在があり、今まで自分がどういった他者との分人を大切に生きてきたかという人生経験的側面も影響していると僕は思う。そして、どの分人を大切にするか決めるという行為は、個性の証明だとも言えるのではないだろうか。自分に内在する複数の分人に真偽の区別は出来ないが、どの分人を大事にするかという自己決定を行うことは出来る。つまり、自分が嫌だなと思う人達との分人は別に大事にしなくても良いのだ。少々非平和的かもしれないが、そういった人達との分人を蔑ろにして生きる代わりに自分が好きだと思える人達との交流を大事にする、自分の好きな分人を自信を持って生きることが、面倒臭い人間関係の緊張の緩和(あくまで自己の精神面においてのみだが)を可能にするのだ。嫌いな人間と接する時と親しい人間と接する時とで態度に雲泥の差があっても、そのことに後ろめたさを感じるよりは、そうして自分の態度が他者によって変化するのを自認することの方が精神的に楽であり、何より複数の分人が内在しているということは、何か対人関係でトラブルが生じて気疲れした時の逃げ道があると捉えることも出来る。人生は一回きりしかないという訓戒めいた文句も、この分人主義的な考え方からすると肯定しがたいものに聞こえなくもない。

 

 内弁慶なあまりに自己肯定感が低い僕にとってこの本は本当に良い薬になったと思う。人間関係に疲弊しきってもう嫌んなっちゃったわ私、って方は是非ご一読することを勧めたい。

 

 余談だが、前述したインターネットの中では人格が豹変したようになるという話(余談として扱うべきではないかもしれないが)。僕は個人的には、今回のこの分人主義的な見地に立つならば別にインターネットで性格が変わったように見えても良いと思っている。そもそもインターネットでも現実と同じように発言しろというのが少し無茶な話だ。現実の人間関係に囚われて、極端な話自殺などに追い込まれるよりは、インターネットという仮想的空間でも居場所があるというのは救いにはなるだろう。まあ、だからと言って何を言っても、何をやっても良いという事にはならないけれど。