装飾系人間の憂鬱

 この間興味深いタイトルの本を読んだので感想を記そうと思う。竹内一郎の『人は見た目が9割』という本である。最初目にしたときは「なんやこのタイトルゥ!?ナメとんのか!」と激昂しかけたが、本書は人間としての容姿がその人の人生の優劣を決定付けるという類の内容ではなく、「バーバル・コミュニケーション(言葉による伝達)」より「ノンバーバル・コミュニケーション(非言語的な伝達)」の方が伝達力が高い、ということを実例に伴って提示したものである。

 

 私がこの本を読んで印象的だったのは髭についての話である。自分に自信がない男性ほど、威圧のサインとして髭を生やしたがるというものだ。確かに街中を歩いていても髭を生やす必要もないような童顔の男性が髭を生やしている光景をよく見かける。これは自分の童顔というコンプレックスを髭というアイテムで隠蔽し、仮初めの充足感を得ているということなのだろう。しかしこれでは暗に「自分は髭を生やさなければ威厳を保てないような人間だ」と自白してしまっているようなものではないか。髭の他にも、ファッション感覚でマスクを着用している人が多々存在する。病を患っていないのにマスクをつけている大多数の人間は顔の下半分を隠匿するという目的があって着用しているのだと推測されるが、やはりこのケースも「マスクをしなければ自信を持って顔面を白日の下に晒せない」という一種の自己保身的な姿勢が見え隠れしていると考えられる。個人的にはマスクを外した時とそうでない時の落差の幅が大きければ大きいほど見る側の衝撃も大きいものになるので、最初からマスクで着飾らずに生活すると言うのが最適解のように思う。

 

 また、とりわけ興味を惹いたのは、人間が伝達する情報の中で話す言葉の内容そのものが占める比率は7%に過ぎないということである。残りの93%は、発話者の表情や声、話すテンポ、態度などに影響されるという。たとえば就活の面接において、全く同じ内容の問答をしたとしても、態度が良く好印象を与えられる人と態度が悪く悪印象を持たれてしまう人がいる。言葉の内容以外の面での情報に僅かでも差異が生じると、そこにはもう人間個人としての差異が発生する訳である。人間は無意識的に視覚的な情報で人を判断してしまう癖を持つ生き物である。そういうようにプログラミングされているらしい(諸説あり)。言葉の内容だけに焦点を当ててその人の人となりを推し量るのは至極困難である。

 

 元来、日本人は非言語的なノンバーバル・コミュニケーションが主流であったという。それは古来日本人が基本言語を必要としない農耕文化に生きていたからだというのである。それ故に日本ではノンバーバル・コミュニケーションが発達し、「お互い語らずに察し合う」という観念が形成された。これに対しヨーロッパ諸国では、古来より人と関わる商業が盛んだったため、「相手に自分の意を理解させる」という考え方が主流であった。端的に言えば、ヨーロッパは日本に比べて謙虚性が欠如しており、日本はヨーロッパに比べて自己主張性が劣っていたということである。ジャパニーズがシャイだなんだと言われる起源もここにあるように思う。

 

 無論、何を話すかという内容の取捨選択も重要ではあるのだが、言語外の視覚的要素でかなり印象が変化するというのも事実であるということがわかった。

 

 という非常に月並みな感想でした、おしまい。

 

 See you again